2016年4月22日金曜日

4月6日 ベチパー稽古


イメージだやらという言葉で、そこらを、ひっかかないでおくれ    
太田省吾 風枕



それで、あらゆるイメージの代わりに、今回の稽古では現実に起きた出来事が再び繰り返され、つまりそこで行われたのは、以前にもこの稽古場で行われた、これまでに演じたことのある幾つかの作品から、幾つかのシーンを抜粋してそれを5〜10分くらいに繋げて見せてもらう、ということで、稽古開始から1時間を、受講生たちの思い出し時間にあてる贅沢な稽古時間の使い方をしながら、その、出演者たちの《これまで》についての上演を行ったのですが、それは、かつての、フィクション、を上演したという、事実、が、再び、イメージ、としてリサイクルされる事でした。


……ああ、あたしよりも、思い出のほうが早くしゃべり出してるんだわ。
太田省吾 小町風伝


彼らと彼女たちは過去に関わった数々の公演から、幾つかのシーンを抜粋して数分のシーンを作るのですが、彼らや彼女たちは、その演劇やダンスを、記憶や思い出の中にあるものを引っ張りだして再現する彼女たちは、それを実際にアクションしている時、作品として上演をしているのか、それとも実際に自分が行った出来事だという現実として再現をしているのか、という事を考えてしまうのは、演劇やダンスが架空の出来事で、それは演じられることだという何となくの了解があるからなのですが、演劇やダンスがフィクションとかミメーシスとか架空の出来事とか作り物だとしても、それを見るのもやるのも現実に生きている人なわけで、というか、演劇が架空だとしてもその架空は現実で行われるのですから、そのボーダーラインは曖昧なものかもしれません。


……とにかく、気づいたら大声を出していた、わめいていたのさ。なんて言ったのか、忘れた、忘れたなあ。
太田省吾 抱擁ワルツ









2016年4月4日月曜日

3月30日 ベチパー稽古

いいじゃないか。ここは清掃車がもっていってくれないゴミを捨てにくるところだもの。
太田省吾 老花夜想


そうしてその日の稽古では、ある出演者が過去に行った作品の方法を踏襲しながら、全員がそれを真似てシーンをつなげていく、というような事が行われました。


それがどんなことだったのか、ここで言うことは出来ないのですが、ぼんやりと説明をすると、ある1日についての、他の可能性について出演者たちが語り合う、という事で、もしかしたらこうだったかもしれない今日という1日や過去の選択について、出演者たちはその場の思いつきで、ありふれた出来事を互いに告白し続けます。



本当にってことは、ほとんどなかったかもしれないようなことなのよ。あたし、ほとんどなかったかもしれないようなことがいっぱい欲しい。ほとんどなかったようなことがいっぱいあれば……なんでもない日のなんでもないことがいっぱいあったことになって、……そうよ、なんでもない日のなんでもないことがちゃんとあるようになれば……どうなるんだったかしら。
太田省吾 更地



そこで語られた出来事はほとんど、ありきたりな告白で、誰しもが考えつくかもしれない、通俗的な、誰しもが共感出来るかもしれないそんな些細な、些末な、ささやかな出来事だったわけですが、その何でもない出来事についてを語る仕草と、今はこうだけれど、もしかしたらこんな可能性があったのかもしれない、という曖昧な希望の集積、《ほとんどどなかったかもしれないようなことがいっぱい》になった稽古場の言葉は、どこまでも帰着することもなく積み重なることで、まるで演劇のようになりました、が、はたして演劇のようになった言葉は、そして、演劇として上演される《なんでもない日のなんでもないことがちゃんとあるように》なった言葉が、どうなるのかはまだ宙吊りのままになっています。


イメージだやらという言葉で、そこらを、ひっかかないでおくれ    
太田省吾 風枕