2015年6月10日水曜日

6/8 自分そのものが理由であるような


テキストが要請する動きについてはト書きとして台本に書かれていることもあるのだけれど、基本的に台本というのはほとんどが主に声に出されるべき言葉によって埋めつくされているのであって、つまりそれは「お前らが察してどうにかしろよ」という脅迫的でそっけないものないものです。


書いてあるからな、わかるだろ? というそこで察すべき制度的な身振りをあっけなく無視しながら稽古を進めていく村川クラスではありますが、そういったやり方において、ある種の強制力として働くテキストの暗黙の命令は、同時に、人がどのように動くかということの根拠という拠り所としても働くわけですから、その命令-制度を無視することは、誰しもが共有する拠り所としての「こうあるべき」安全な場所から離れるということであり、そうなるとどうなるか、というと、他人の命令を無視して、自分自身を根拠として、私はこうなのだ! だからこうなっているのだ! と主張しなければなりません。


演劇とはこうである、人形の家とはこのように上演されるべきものである、という優等生的な方法を選んだ場合には決して起こらないような不意打ちや驚きは、「人形の家」の命令を無視し、制度的なありきたりさから距離を置いて、つまり人形の家に対する不良として上演に向かっているこのクラスであるからこそ起きるとともに、その不意打ちの驚きは、ルールを平然と破る子供のようにどこかユーモアがあってで爽快です。


あと、急に話題を変えますが、アトリエ劇研のHPにて情報も掲載されました。
ご予約は7月1日より!
皆様のご来場、こころよりお待ちしています!


http://gekken.net/atelier/lineup/pg276.html

2015年6月4日木曜日

6/3 同じことの繰り返しとして、



同じことの繰り返しとして、例えば能なんかは橋を作るにあたって人柱になった男についての伝承を語るために行われた、などという起源の解釈があるわけですし、そうやって継続することというそれ自体が一種の価値として行われることには、他には聖地巡礼などを行い過去の神話的な伝承を再確認し自分たちの出生を知るための必要な儀式になったりするのですが、概ね普通の生活のなかでは同じことの繰り返しは退屈なものとして嫌われることが多く、そういったことが一つの秩序となった時にその世界が構成している関節をはずす者を道化と呼んだ山口昌男という文化人類学者は、道化は笑い者であると同時に恐ろしい者である理由を、秩序に反した出来事であるからだと結論をつけるのです。


イプセンによって書かれ、ごく当たり前に解釈できるための研究書など探せ場いくらでも手に入る「人形の家」というテキストは、説明がついてしまう秩序の側にすでに収められていて、人形の家はこういうものだ、という確固たるあり方が示されてしまっているからこそ、秩序に違反する不良少年が指導されるように、人形の家っていうのは、ああいうものじゃあないんだよ、と制度のなかのあり方を強制される可能性を秘めたテキストです。



同じことの繰り返しとして、何度も再演され語り直されてきた人形の家の繰り返しの円の外に出てしまうことのおかしさは、端的に、ふざけてる、というような気がしなくもなくて、きっとイプセンの人形の家の上演、と言われてもごく普通のあり方として想定されていないこのクラスの「人形の家」は、端的にちょっと「おかしい」ものになっています。


とはいえ笑いは、すでにある秩序からはみ出した突飛で驚きに満ちた出来事として、つまり想定外の出来事として現れた時に、笑いと畏怖は起こり得る可能性があって、ちょっとおかしい出来事の「おかしい」は二つの意味を抱えてながら、同じことの繰り返しとして、少しずつずれながら進んでいます。

6/1 同じことの繰り返しとして、


同じことの繰り返しとして、例えばイプセンの人形の家について、日本における翻訳書はウィキペディアによると、現在容易に入手可能なものとして三冊の人形の家を紹介しているのですが、つまり、日本語で書かれた人形の家というテキストは、《それでもどういうわけか、イプセンの人形の家、と言えば誰しも、色々な注釈に囲まれた制度的な人形の家の中でゆったりと、ああ、フェミニズムの、お金の話で、演劇の、あれだよね、うんうんと物知り顔で幾らでも、人形の家と言う制度の中で説明できてしまうわけですから、》とこのブログにて、かつて書いたことがあったとしても、翻訳の数だけ全く別の(というのは内容や選択された日本語やタイトル横に記された訳者の名前の記述)本としてありながら、それらは簡単に、人形の家である、と名指されることになるのです。


翻訳という、外国語の文字を母語で代用する(represent)、という作業は、ある外国語に対し、それに相当する(represent)母語に書き換えることであって、その外国語の代理(represent)の言葉があるテキストを再現する(represent)ということでもあるのですが、このrepresentという単語一つとっても、このフランス語の意味を日本語で再現(represent)するばあい、その文脈や使用方法によって表現(represent)される出来事や説明(represent)される意味は、たった一つの単語であるにもかかわらず、いくらでも別のものとして立ち現れてしまうというそれは、翻訳についての話ではなく、同じことの繰り返しとして何度も続けられながらずれていく演劇の稽古のことであったり、あるいは一番最初に書かれた「人形の家」から100年ほどの時間を経て、様々に翻訳され、研究(つまり別の言葉でそれを説明すること)され、そうやって一つの同じ「人形の家」としてありながら、同じことの繰り返しとして、《今までに世界各国で何度も再演(represent)されたであろうこの「人形の家」の上演(represent)を目指し》、稽古は進んでいます。

5/27 同じことの繰り返しとして、


このブログが気がつけば1180くらいの閲覧回数がカウントされておりまして、なんとなく驚いてしまったのですけど、それではせっかくなので読み直してみたりしたら、なんとまあ、同じような話ばかりしている、というか、稽古自体も確かに同じことばかりしているのですが、それにしても、制度、とか、外に出る、とか、そんな話ばっかりしている、ということに気がつくのでした。



《たったひとつの「人形の家」が、受講生がそれぞれに考える「人形の家」に再構築されて、さらにそれぞれに新しい解釈をされたいくつかの「人形の家」が、たった一つの「人形の家」として構築される過程は、例えば、よつばと!というマンガの帯にも 「世界は見つけられるのを待っている」 と書かれていましたが、なにで見つけるのかといえば、自分は人形だ、とノーラが自分自身を語ったように、それぞれに「人形の家」は、こういうものだ、と受講生が考えて形にした発見をパッチワークする作業は、今までの稽古で、すでに取り留めもない「人形の家」がさらに取り留めもないものになってしまうのかもしれませんが、例えば難解な絵本で「そんなの子供じゃないよね」という距離をとることによって子供のことを考えるように、いろいろな言葉でパッチワークされた「人形の家」が再構築されることによって新しい「人形の家」を発見するということもあるのかもしれません》


《決してイプセンが想定していなかったであろう今回の幾つもの奇抜な「人形の家」は、ありきたりな人形の家ではない、しかし、人形の家である、という不思議な二重性を保ったまま、ほんの少しずつ、人形の家への理解を深めている最中です》


《人形の家を勉強してしまったばっかりに、上手くいかない、と村川さんは仰って、それは、人形の家というものが、「ある制度的な場所から自由になる事の話」だといった読まれ方をするのであれば、人形の家を上演するという事は、同時に「制度からの自由でなければならない」のかもしれないという考えがどうやら頭の中で漂っているらしく、その自由とは、きっと最初から村川さんが言っていた「演劇のような喋り方って言うのは何となく出来てしまうんです」というような、どうしても勝手に我々がいつの間にか習得している「それらしさ」にあやかるどころかまるでそれそのものが正解であるかのように思い込まされてしまい、気がつけばそこから抜けられなくなっている「制度」からの自由でもあり、》


同じ時間について、同じ言葉を繰り返し語る、というか、同じ主題を何度も語り直してばかりではあるのですが、そんなに同じことばかり書いてしまうのも、演劇の稽古というものが、同じ稽古を繰り返し続けざるをえない、からこそ、その堂々巡りはまさしく演劇の稽古をしているという感じがするのでした。