2015年6月4日木曜日

6/1 同じことの繰り返しとして、


同じことの繰り返しとして、例えばイプセンの人形の家について、日本における翻訳書はウィキペディアによると、現在容易に入手可能なものとして三冊の人形の家を紹介しているのですが、つまり、日本語で書かれた人形の家というテキストは、《それでもどういうわけか、イプセンの人形の家、と言えば誰しも、色々な注釈に囲まれた制度的な人形の家の中でゆったりと、ああ、フェミニズムの、お金の話で、演劇の、あれだよね、うんうんと物知り顔で幾らでも、人形の家と言う制度の中で説明できてしまうわけですから、》とこのブログにて、かつて書いたことがあったとしても、翻訳の数だけ全く別の(というのは内容や選択された日本語やタイトル横に記された訳者の名前の記述)本としてありながら、それらは簡単に、人形の家である、と名指されることになるのです。


翻訳という、外国語の文字を母語で代用する(represent)、という作業は、ある外国語に対し、それに相当する(represent)母語に書き換えることであって、その外国語の代理(represent)の言葉があるテキストを再現する(represent)ということでもあるのですが、このrepresentという単語一つとっても、このフランス語の意味を日本語で再現(represent)するばあい、その文脈や使用方法によって表現(represent)される出来事や説明(represent)される意味は、たった一つの単語であるにもかかわらず、いくらでも別のものとして立ち現れてしまうというそれは、翻訳についての話ではなく、同じことの繰り返しとして何度も続けられながらずれていく演劇の稽古のことであったり、あるいは一番最初に書かれた「人形の家」から100年ほどの時間を経て、様々に翻訳され、研究(つまり別の言葉でそれを説明すること)され、そうやって一つの同じ「人形の家」としてありながら、同じことの繰り返しとして、《今までに世界各国で何度も再演(represent)されたであろうこの「人形の家」の上演(represent)を目指し》、稽古は進んでいます。

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