2014年11月27日木曜日

11/26 やっぱり、人形の家



このクラスでは、稽古前にこの一週間で見た演劇を聞いて、その数をカウントしています。
一年を通して見た公演数が一番多かった人には、皆から何かのプレゼントを渡しましょう、という村川さんの提案から始まったわけですが、今のところ、言い出しっぺの村川さんが毎週トップを走っています。公演を見るのにはそれなりのお金がかかるので、なかなか数を増やすのは難しいかもしれませんが、ぜひとも皆さん頑張っていただけたらと思います。

人形の家のノーラもよく「お金を頂戴!」と劇中で言っています。

別にノーラは演劇が見たかったわけではないのでしょうが、とにかくお金が無いという状態は演劇に関わらずあらゆるお話の中で何度も繰り返されて来たテーマでしょうし、そういったありきたりでありふれた当たり前のありがちなお話は、見る方も、ああ、こういうお話ですね、と了解しやすいものでもあるかもしれません。

今回の稽古で村川さんから皆さんに出された指示は、外に出て行く、という人形の家の大きなタームを維持しながら、人形の家を演出し、そして演じてください、という事でした。

それぞれの受講生はそれぞれの人形の家を演じ、それぞれに「脱出」という事を表現していましたが、それはストレートにイプセンの人形の家ではなく、どちらかと言えばコンテンポラルな表現が中心になっていました。人形の家と言われなければ分からないようなシーンも数多くあったのですが、それでもそれは、決して簡単に了解できるものではないけれど、あくまで人形の家の大事な核のようなものを守りながら、それぞれの考える「脱出」を考えた結果だったわけですし、それに、村川さんからは、脱出、という人形の家の大きなテーマを守る事が指示されていたわけですから、やっぱりそれは人形の家ではあったのでしょう。

その後、村川さんはある受講生の発表の感想で、「演劇は私という(一人称の)言葉が成立しづらい」と仰っていました。勿論、いくら受講生が私はノーラですと言ったとして、彼らや彼女たちはノーラではないわけですし、私ではない役柄を、しかし、私である、として演じることの不思議さなど、役や俳優のアイデンティティにまつわる考えは演劇の中ではとても重大な問題ではありますが、決してイプセンが想定していなかったであろう今回の幾つもの奇抜な「人形の家」は、ありきたりな人形の家ではない、しかし、人形の家である、という不思議な二重性を保ったまま、ほんの少しずつ、人形の家への理解を深めている最中です。



2014年11月22日土曜日

11/19 まだまだ、人形の家

イプセンの事を勉強しちゃったんですよねえ、と村川さんはおっしゃいました。

それというのも、人形の家を始める時に、あんまりちゃんと読んだ事ない、と村川さんは話していて、その後、受講生の皆さんも読んでいない事が分かってから、まあ、それでも何となく上手く稽古は進んでいたのですが、人形の家を勉強してしまったばっかりに、上手くいかない、と村川さんは仰って、それは、人形の家というものが、「ある制度的な場所から自由になる事の話」だといった読まれ方をするのであれば、人形の家を上演するという事は、同時に「制度からの自由でなければならない」のかもしれないという考えがどうやら頭の中で漂っているらしく、その自由とは、きっと最初から村川さんが言っていた「演劇のような喋り方って言うのは何となく出来てしまうんです」というような、どうしても勝手に我々がいつの間にか習得している「それらしさ」にあやかるどころかまるでそれそのものが正解であるかのように思い込まされてしまい、気がつけばそこから抜けられなくなっている「制度」からの自由でもあり、更に村川さんは、人形の家に描かれている事は、ノーラが常識とか通例とかそういったものから自由になるという事なら、この台本を上演する際にもノーラのように自由になる必要があるかもしれない、その自由とは、一般的に人形の家ではノーラが肯定的に扱われているが、ノーラに対して否定的になる事では無いだろうかと話すので、受講生たちがそれに納得していたかどうか、と、言うと、なんとも、?、とクエスチョンマークというかただぼんやりとしていた人が多かったようにも見受けられましたが、結果的にその日の稽古も突飛であるが故に凄く人形の家らしい(だって、ノーラのした事だって、突飛で、驚きに満ちた事でしたから)エチュードで終わったので、こんな風に、たったひとつのテキストに何週にも渡りのめり込んで、教える、と言うよりは、一緒に困る、というスタンスで進んでいくようなこのクラスは、少しずつ、その空気感に馴染みながら、ちょっとずつ、人形の家と格闘しています。

11/5 再び、人形の家


アクターズラボと村川さんって、あんまり合わないですよね、と受講生に言われてしまうところから始まったこのクラスですが、稽古は順調に進んでおります。

それというのも、そもそも村川さんは「劇作家」では無いわけですから、もともと、確かに、講師としては普段とは随分違うものと思われるのも当然かもしれません。

さて、そんな村川クラスの人形の家は、ちょっとずつ人形の家から外れていきます。

ある受講生の1人はそのテキストの全てを読む、その他の皆は自分が選んで気に入った箇所をいくつか選んでください、そうして、そのところが来たら自分なりの読み方で読んでください。そうして、もう1人はその文章が一区切りついたところで、気に入った箇所を覚えて読んでください。という、そんな人形の家。

全くもって、人形の家のテキストが要請しているものとは違います。イプセンが要請していたのは、ノーラと言う女性を、まるでノーラのように演じる事だったのかもしれません。

ただ、これはこれでイプセンの人形の家のようではある、とも思います。

人形の家とはすごーく単純に「虐げられる女性」あるいは「言いなりの女性」です。

たった1人が全てを読み続け、気に入った箇所が来たら急に割り込んで、好き勝手な読み方でセリフを読んで、どうでも良い場所は人に任せる、という形で進んでいく読み合わせを見ていると、まるで通して読んでいる受講生が皆の為にどうでも良い時間を過ごさせられている労働者のように見えてきます。

決して自由に自分の好きな事をやらせてもらえず、人が読み始めたらその場所だけ譲り、そうやってただ淡々とテキストを読む時間を過ごすことは、家の中で自由を無くして言いなりの操り人形になっていたノーラに似ていました。

そんな風に続いている人形の家を公演でやるのかどうかは置いといて、取りあえず人形の家について考える事はもう少し続いていきます。