2016年10月6日木曜日

9/19 再演について



さて、日付は公演前の最後の稽古になっていますが、実はすでに公演は終わっています。
そうして、Fbなどで再演の話がチラホラと出ているのですが、まだどうなるかはわかりません。

いずれにしても公演は終わり、中国と日本についての作品、あるいは、日本と中国についての作品、などなど、色々な言い方で説明することは可能ですが、どういう言い方をしても、その上演について細かく話をすることは出来ないので、やはり、再演をして、より多くのお客様に再び観客席で今回の公演を見に来ていただかなくては、と思っています。

東京、京都とそれぞれでまだまだ再演の可能性はありますので、関東、関西の皆様、ぜひこの機会をお見逃しなく。


9/16 9/17 公演後雑記2


本当にたくさんのお客様にご来場頂きまして、と、言えればよかったのですが、劇研で行われる演劇公演としては決して多くはない、しかし、普通の劇団の第二回公演、としては、とてもとても沢山のお客様にご来場頂き本当にうれしいです。

出演者の皆、そして私にとっても、これ以上ない経験だった思います。「中国語勉強したことある?ない?それは無関心ってこと?中国に対して中国人に対して、あるいは中国語に対して」という言葉は上演では使われませんでしたが、稽古場で話されたそれに対して、私に向けられていた質問ではないけれど、私は未だに返事をしそびれています。

9/14 9/15 公演終雑記1



これを書いているのは、じつは公演もとっくに終わった10月です

ベチパー『Fools speak while wise men listen』の初日がおわって、当日券をお求めのお客様を含め、沢山の方にご来場いただけました。
お客様のアンケートの中では、自分の中国人の友人を思い出した、という感想や、中国人の友人と共に作品を見て話をしたいという感想など、お客様それぞれに、別の誰かを思い出しながら作品を見ていただいた方や、あるいは、執拗に繰り返される言葉が、少しずつ変化する中で違っていく演技や向かい合う二人の関係性に、演劇の楽しみを見つけていただいた方など、多くのご感想をいただけました。

9/8 9/9 日本と中国

劇研アクターズラボ+村川拓也 ベチパーの新作公演のタイトルは、Fools speak while wise men listen、つまり賢者は聞き愚者は語る、という意味なわけですが、しかし、舞台の上では、日本人、中国人が互いに、聞き、話し、つまり、語り合っています。
だから彼らは、彼女たちは、互いに愚者であり互いに賢者であるような、そして、観客も、それを黙って見ているときの観客席の私たちは賢者であり、そしてそれについて感想を書いている今の私は愚者であり、だから別に、誰かがいつも愚かで、いつも賢しいわけではなく、ときどきは賢しく、ときどきは愚かしい、そんな聖俗の行き来を繰り返しているという感じです。
しかし、基本的に私たちは、言葉を交わさ分かり合えるなんてことはないのですから、いくら愚かであろうとも、最初の一言を誰かに向かって話しかけなければいけないわけで、たとえば誤解があったとしても、分かり合えないままだとしても、何度も何度も、同じことの繰り返しとして、語り合わなければならないのかもしれませんし、だから、今回の作品でも、私たちは、自ら話をしてみよう、愚かであろうとも、話をしてみよう、いつまでも愚かであり続けよう、という単純な事をしているのかとも思います。しかし、単純が、いつも簡単だ、というわけではない、から大変です。
そして、というか、あるいは、それは、分かり合う必要なんて本当はなくて、私たちは違ったまま、それでも向かい合い続けようとしているのかもしれません。

9/1 9/2 中国と日本

劇研アクターズラボ+村川拓也 ベチパーの新作公演には、中国からの留学生にも出演してもらっています、と、あまりに簡単に書いてしまいますが、中国って本当に広いわけで、一括りにそう国名で言っても、彼らの生まれた場所によってはかなり文化も違うのだ、と、よく考えればこんな島国日本でさえ、青森の人と話をすると聞き取りづらかったりするわけだし、雪を見たことない人とかいるし、第一、桜の時期に入学式、みたいなありがちなやつですが、それって東京周辺、関東地方にしか起こらない現象で、私の生まれ故郷の新潟じゃあ、桜なんて咲く気配もねーよ、めっちゃ寒いし、あとアレです、新潟でもスキーが出来ないって人もいます、と思ったりしていたし、だから私たちは、例えば一括りに、日本、と言われたって、いやけっこう色々あるから、みたいな事が起きるのに、どうして中国という国を母国にする彼らに対して、こんなにも無自覚に「中国のみんな」と言っておしまいにしてしまうような傲慢さをこれまで気が付かなかったのだろうか、と驚いたりもしています。

2016年9月3日土曜日

8/29 8/31 対話


さて、これまで何度か、ワークショップ形式での上演を視野に入れつつ、作品を作ろうとしてきたわけですが、どうやら、おそらく、なんとなく、その方法はやっぱりなくなってしまいそうです。

それというのも、昨年「人形の家」をやってみて、村川さんはどうやら、そうじゃないだろう、ということを考えたらしく、今回の公演では、アクターズラボだから、とか関係なく、自分が作るべき作品にする、といって、戯曲の可能性を早い段階でなしにして稽古を進めてきたわけですが、この直前になるまで、実はまだ決めあぐねていた幾つもの出来事もあったわけです。

しかし、いよいよ、作品をどうするか、そろそろ決めなければいけなくなって来ているのですが、やっぱり、ワークショップっぽい何かで、わちゃわちゃした作品を作るのではなく、たとえそれが無理なことであったとしても、あるいは残酷だったり不平等なことだったりしても、出演者一人一人との対話を通じて作品を作るということ、そして作品は、中国人と日本人が向い合って話をするだけの、もしかしたらどこまでも退屈な、そしてどこまでもミニマムで、小手先のアレコレなどをはじめから排除した作品が、したい、というよりは、そうしなければいけないのかもしれない、とさえ思い始めている今回の稽古場では、上演一ヶ月前にして、やっと作品の内容が固まり始めているのでした。

2016年8月24日水曜日

8/22 8/24 ワークショップ


引き続きワークショップ形式の稽古が進んでいて、ワークの中には、互いの目を見る、互いの言葉を繰り返す、など、偶然にもこれまでの稽古にて行われていたのと同じ作業があったりしたのですが、それはそれとして、相変わらずそれはルールに従うあいだ、国籍なども関係なく同じルールに従わざるをえない強制力をもって、誰もが平等になれるのですが、ワークショップは他にも、あるいて、とまる、とまって、あるく、などのシンプルなものから、誰かの事を考えて下さい、などの抽象的な事まで、様々な内容のことが行われて、そういった多くのワークをパッチワークしつつ、一つの作品として構成し直す作業が、現在行われている最中です。


8/15 8/17 ワークショップ



最近の稽古では、新たな方法として、ワークショップ形式の作品作りが行われています。
ある出演者が実際に大学で受けている授業をそのまま、俳優としてのワークショップを、中国人と日本人がワークショップを受ける、というその中に、おや? とか、あれ? とか、そんな台詞が不意打ちのように現れてくるようなシーンを幾つも作っていて、それが何が面白いか、というと、中国人、日本人、いずれにしても、ワークショップというルールに対しては、どんな国籍であろうと関係なく、あくまで規律に従うことしか出来なくて、それであれば、私たちは、というのは、けっして「日本人」だけの「わたしたち」でもなく「中国人」だけの「わたしたち」でもなく、誰しもが平等に「わたしたち」となれる状態で、稽古が進んでいます。

8/8 個人と国籍


稽古は相変わらず、遅々としていながらも順調ではあるのですが、以前も行った個人的な、中国についての思い出を語る、などのことをやっており、そこでは、中国の事を話す、という事をしながらも、更に無関係な動きを付け足す(例えば中国の思い出について話をしながらクラシックを踊るとか)などの事をしながら、ただの個人的な思い出が少しずつ演劇のシーンとして構成されていきます。

稽古の途中では、新しいアイデアが生まれてはなくなっていく、という事を繰り返していて、じつは余りまだ作品の全貌は見えてきていないのですが、それでも、比較的に村川さんは普通にしているので、なんとなく大丈夫とは勝手に思っているのですが、それでも、公演までは残り約一ヶ月、すでにご予約開始していますので、皆様のご来場、どんどんお待ちしています。

8/1 8/3 中国と日本



ベチパーの稽古では引き続き、中国語による日本へのヘイト、日本語による中国へのヘイトがそれぞれ口にされています。

それで、日本人の出演者(ベチパー)の6人と、中国人の出演者は共におなじ稽古場で同じ時間を過ごしているのですが、そこでは様々な文化の違いなどを強調するのではなく、むしろ、例えば同じルールの中であるワークを行い始めると、そのルールの前では誰もが平等に、同じような反応をとったりします。

本番に向けて少しずつシーンを作りながら、作ったシーンを壊しながら、現在も稽古場ではえっちらおっちら、中国と日本の距離について考えています。
































2016年7月27日水曜日

7/25 わたしたち

毎回毎回、私たちの母語で書かれたスラング混じりの言葉によって中国を非難する最悪の言葉を、そんなこと思っていないのに言わざるを得ない、そして聞かざるを得ないその状況が続いてしまっても大変なので、という理由ではないのですが、その日の稽古は、皆が思い思いの場所に机を出して、それで、自分の言葉で中国について何かを書いてみる、という事になりました。


普段あまり書くことがないですが、稽古場の雰囲気というか、受講生の雰囲気なのですが、彼らは基本的に静かで、そして、ゆったりした時間を過ごすし、そもそも、あまり大きな声で皆で盛り上がっている、という状況を、そんなに見たことがありません。
だからといって見かねて、仲悪いの?と聞くと、そうではないらしいのですが、傍から見てると、とても1年たって仲良くなった的な雰囲気を全く感じない、のですが、たぶん結構仲良さそうです。机の配置はバラバラでした。


そんな静かな、というか、ゆったりとした人たちが、最近の稽古では、死ね、と言っています。あとは、クソ、と言っています。その他ですと、ゴミ、とか、そういったことを言っています。その言葉は、けっして、その出演者によって感じて、出演者が自分の気持として言っている言葉ではない、のですが、しかし、実際にブログや2ちゃんねるなどにかかれた、現実の言葉である以上、大枠の中で、それはわたしたちの言葉として聞かれてしまうのでしょうし、もしかしたら、その私たちというのは、観客席も含めた、わたしたち、という集団のことばとして、その悪口は聞かれることになるかもしれません。

7/11 7/13 公演情報公開!チケット発売!


ベチパー
劇研アクターズラボ+村川拓也
『Fools speak while wise men listen』


演出|村川拓也
出演|穐月萌 石井花果 北野万里奈 城間典子 諏訪七海 野村眞人 山本悟士
   and more

中国と日本を巡る、村川拓也+ベチパーによる新作公演!


日程
2016年9月23日(金)~9月25日(日)


9月23日(金) 19:00 
9月24日(土) 15:00/19:00
9月25日(日) 17:00

開演30分前より受付、開場。
※未就学時のご入場はご遠慮いただいております。


料金 

一般 前売:2,000円 当日:2,300円
学生 前売:1,500円 当日:1,800円


チケット

チケット窓口:アクターズラボHP
お問い合わせ:080-1485-6805(9:00〜20:00)

7/6 text/textile


それはそれとして、中国語のテキストを丸暗記したり色んな事をしている今回のクラスですが、現状、何をするか、というか、何になるか、ということがいまいちまだ判りかねている今回の作品について、ひとつだけ予想されることは、日本語と中国語によって話される言葉のあいだの距離感が、そこには見えるかもしれない、ということです。

距離というものは決して見えるものではなくて、遠くにいる相手が小さければ遠いし、大きければ近い、という遠近法で私たちは距離を見るわけですから、そこで見られているものは遠さや近さ、ではなく、大きさや小ささを見ることでその隔たりを計算し、だからこそ、遠近法の比例を逆手に取っただまし絵などを作ることも出来るわけです。

大きいものや小さいものを、しかるべき場所に配置することによって何かの距離を定める一点遠近法のような技術は、奥行きを含めた全体性の構築ではあるのでしょうが、言語にとっても遠近法は存在していて、何を伝えるために何が前に見えてくるのか、何が後ろに来るのか、考える必要がありますが、私たちがこの稽古場で使っている様々な言葉は、ネットの、書いた人も書かれている場所も書かれた日付も、そして書かれている言語も全て違った言葉が、ひとつの場所で様々に語られるのは、きっとそれらのTEXTは、順序立てられて論理的に並べられる、ひとつの直線になるのではなく、それぞれの線が交錯し絡みあうTEXTILEとして、時間の拡がりではなく空間的な拡がりの中で聞かれることになるのかもしれません。


7/4 STORY/HISTORY



今回の作品では、戯曲は使われる予定はありません。
それというのも、近年の村川さんの本公演からすれば、昨年行われた「人形の家」の上演が特殊なことであり、今回も、戯曲を使った公演、という案も出なかったわけではないですが、それがどうして行われなかったかといえば、それは単純に、やはり、村川さんの関心の中に「戯曲」ということよりも、別の事があった、ということになるのでしょうけれど、では、その関心とは何か、というと、中国、あるいは中国と日本のあいだにある距離、などの言葉になるのかもしれません。


しかし、劇研アクターズラボはそもそも、俳優のための演劇講座、というようなコンセプトがありますし、俳優はそうなると、戯曲があって、それを上演する、ということが、やはり普通の俳優としてのあるべき姿、と一般的にはそう考えるの当然といえるのかもしれませんし、第一、俳優が戯曲やその他の、例えば物語の中の人物として存在しなければ、それは演劇なのか、という問いも現れてくるかもしれません。


とにかく、今回の稽古場では戯曲に書かれた言葉は使われず、そこで、代わりに何の言葉が使われているか、というと、ネットに書かれる様々な悪口、罵詈雑言、レッテル貼り、などなど、ここでちょっと引用して紹介するのもはばかられるような様々に趣向を凝らした悪態、が口にされていて、そこには戯曲に書かれるような物語(STORY)は存在していないのですが、そのヘイトな文章が積み重ねられている状況は、私たちの現在のひとつの状態であり、生きている今の時間であり、何よりこれまでに過ごされてきた歴史(HI-STORY)がその稽古場では上演されつつある状態です。







2016年6月30日木曜日

6/29 ヘイト!


書き忘れていたことがひとつあって、今回の稽古場には、時々、京都大学の院生で日本語がとても上手な剣さんが時々来てくれていて、以前、受講生7名の最近の出来事を日本語でかいた文章を中国語に翻訳した上に発音の授業までしてくれたので、じつは、今回の出演者はほんの5分だけ中国語をモノローグすることが出来る、という、たったそれだけのセリフ(といっても実際の上演で使われるのかわからないのですが)を覚えていて、それでも毎回その剣さんが稽古場に来てくれるわけではないので、そういう時に最近の稽古場で何が行われているのかというと、インターネットや反中本の文章、ヘイトスピーチや夏目漱石が過去に書いている中国批判、などを、日本語で読み上げる、ということ、ですが、そういうとイカニモ政治的、な作品に仕上がりそうですが、私たちはただの一言も、自分たちの言葉で中国について何かを語ってはいなくて、2ちゃんねるでもなんでも、とにかく、現実に誰かが書いた文章を引用してそれを呼んでいるわけですから、なにか政治的なメッセージなどを語っているのではなく、ものすごく徹底的に現実的な出来事について考え、リアリズムな言葉を駆使して稽古場を作っているものの、来週は、ヘイトではなく漠然とした、中国について書かれたものを読んでみよう、ということで、日本人が捏造した根拠によって語られる暴力的な差別の言葉を来週は聞かずに済みそうですが、なにより、凄く残念なのは、前に剣さんが私たちに中国語で読んでくれた日本に対する中国からの応答、つまり日本批判を、私たちはその言葉を知らないばっかりに、理解できなかった、ということです。

6/15 インタビュー!


それで中国について、中国語について、あるいは、というかむしろ、それらの国や言葉を通じて、私たちの母語や歴史や現在を否応なく考えざるを得ない大きな大きな「中国」について、だけを黙々と考えていたわけではなく、もう一つ、この稽古場では時々、インタビューを音読する、という作業も行われていて、答えているのは笙野頼子や保坂和志、太田省吾などの小説家、演出家、など、広い意味での文学者、と言っても良いのかもしれませんが、そういった「作家」の文章を、話し手の性別などもあまり関係なく、とにかく読んでみる、と言う作業について、実際に稽古の最後に村川さんも「これはあんまり今回の作品に関係ないです」と言っていたわけですが、どうやら、インタビューという形式なのか書物なのか判りませんが、いずれにしてもそれへの関心から稽古場では数回、インタビューを声に出して読む、ということがなされ、けっして私、ではない出演者が、だれにうっているのかよくわからない相づちをしながら、そうですね、僕が考えていることは〜、などなど、自分ではないものの言葉を自分の言葉として、しかも文学者は考えることが難しいのかリゾーム、シニフィアン、エクリチュール、天皇制、領土化と脱領土などなど、むつかしい言葉満載であったり満州から引き上げてきた思い出などについて語る20代前半女子、などなど、とにかく、絶対にそれが「私」の言葉でも事でもないインタビューを「私」として引き受ける姿は、たしかに自分ではない人の言葉を自分のこととして話す、という意味では演劇、なのかもしれませんが、いずれにしても、今回の稽古場では、演劇は少しいびつな形にされながら、上演に向けて着々とした遠回りを続けています。

6/7 フィールドワーク!


そして日々稽古は進んでいて、演劇の稽古といえば、もちろん声を出さなければいけないわけですからまずは発声練習、その前に、大きな声を出すためには体をほぐしておく必要があればストレッチをしてみたり、それで、ひと通りそれが終われば自分のセリフを確認したり、会話のシーンがあれば誰かと一緒にそのシーンを再現してみたり、そういう場所はいわゆる稽古場、といっても鏡張りの稽古場なんていうものはなかなか準備出来ませんが、とりあえず四方向に壁があって天井もしっかりあって明るい場所、と、いったことが行われるこのクラスではなく、今回の集合場所は四条にあるバーガーキングの二階――は確かに壁も屋根もありましたが、けっしてストレッチや発声練習に適した場所ではなく――に集まり、受講生たちと村川さんは車通が多く賑わっている割にはなんだか歩道がやけに狭くて、うっかりすると向かいから歩いてくる人に肩や腕をぶつけてしまう、自転車の走行が禁止されている四条烏丸付近へ散策、というか、フィールドワークに向かい、それというのもその日の稽古(?)は「街にいる中国人が何をしているのかじっくり見てみよう」という稽古(?)で、出演者の7名(お休みもいましたので正式には6名)は、各々に街を徘徊し、薬局やホテルや、あまりに出来過ぎた偶然で修学旅行らしき中国の学校の生徒達がわやわやと連れ立って歩いている横を一緒になって歩いてみたり、などのことをしながら、それを後日レポートにまとめる作業をしたわけですが、さて、これが「演劇」の「稽古」か! と言われると、なんとなく、微妙、な気がするのですが、一番の問題、あるいは幸いは、受講生の7人が、なんでこんなことをしなければいけないのか! 私たちは俳優になるために演技の練習をしに来たのではないのか! これは演劇ではなくて社会学とか文化人類学ではないか! というような皆様ではなく、あ、四条ですね、また、なんか変なことするんですね、と簡単に納得してバーガーキングに集まり、大学生のふりをして薬局で買い物している観光中のカップルに声をかけるくらいには楽しんでいる、ということが、問題、あるいは、救い、というか、順調、ということなのかもしれません。

6/1 中国語


さて、すっかり何も更新されない村川拓也クラスのアクターズラボですが、実はしっかりと稽古が進んでいて、しかし、昨年はイプセン、人形の家を上演した我々「ベチパー」は今回、恐らく戯曲などを使うことがなく、昨年とは全く別の作品を上演することになりそう、そもそも、昨年も書いたことですが、このクラスが目指している「俳優」は、きっと誰もが考えるような俳優、例えば演技が上手とか、声が大きいとか、自分の意志で涙を流せる、とか、そういったことを目指して行われずに、むしろ、積極的にそういったことを避けるような舞台への立ち方を目指している今回のクラスなわけで、それであれば、わざわざ、戯曲、などというものも、もしかしたら必要無いのかもしれない、と、なんだかんだ色々とあるわけですが、さて、その上演について、何が行われるのかというと、実はまだほとんど決定していないものの、ひとつだけ、やんわりと皆様にお伝えできる事は「中国語」ということです。

上演は9月末、アトリエ劇研にて、皆様のご来場お待ちしております!

2016年4月22日金曜日

4月6日 ベチパー稽古


イメージだやらという言葉で、そこらを、ひっかかないでおくれ    
太田省吾 風枕



それで、あらゆるイメージの代わりに、今回の稽古では現実に起きた出来事が再び繰り返され、つまりそこで行われたのは、以前にもこの稽古場で行われた、これまでに演じたことのある幾つかの作品から、幾つかのシーンを抜粋してそれを5〜10分くらいに繋げて見せてもらう、ということで、稽古開始から1時間を、受講生たちの思い出し時間にあてる贅沢な稽古時間の使い方をしながら、その、出演者たちの《これまで》についての上演を行ったのですが、それは、かつての、フィクション、を上演したという、事実、が、再び、イメージ、としてリサイクルされる事でした。


……ああ、あたしよりも、思い出のほうが早くしゃべり出してるんだわ。
太田省吾 小町風伝


彼らと彼女たちは過去に関わった数々の公演から、幾つかのシーンを抜粋して数分のシーンを作るのですが、彼らや彼女たちは、その演劇やダンスを、記憶や思い出の中にあるものを引っ張りだして再現する彼女たちは、それを実際にアクションしている時、作品として上演をしているのか、それとも実際に自分が行った出来事だという現実として再現をしているのか、という事を考えてしまうのは、演劇やダンスが架空の出来事で、それは演じられることだという何となくの了解があるからなのですが、演劇やダンスがフィクションとかミメーシスとか架空の出来事とか作り物だとしても、それを見るのもやるのも現実に生きている人なわけで、というか、演劇が架空だとしてもその架空は現実で行われるのですから、そのボーダーラインは曖昧なものかもしれません。


……とにかく、気づいたら大声を出していた、わめいていたのさ。なんて言ったのか、忘れた、忘れたなあ。
太田省吾 抱擁ワルツ









2016年4月4日月曜日

3月30日 ベチパー稽古

いいじゃないか。ここは清掃車がもっていってくれないゴミを捨てにくるところだもの。
太田省吾 老花夜想


そうしてその日の稽古では、ある出演者が過去に行った作品の方法を踏襲しながら、全員がそれを真似てシーンをつなげていく、というような事が行われました。


それがどんなことだったのか、ここで言うことは出来ないのですが、ぼんやりと説明をすると、ある1日についての、他の可能性について出演者たちが語り合う、という事で、もしかしたらこうだったかもしれない今日という1日や過去の選択について、出演者たちはその場の思いつきで、ありふれた出来事を互いに告白し続けます。



本当にってことは、ほとんどなかったかもしれないようなことなのよ。あたし、ほとんどなかったかもしれないようなことがいっぱい欲しい。ほとんどなかったようなことがいっぱいあれば……なんでもない日のなんでもないことがいっぱいあったことになって、……そうよ、なんでもない日のなんでもないことがちゃんとあるようになれば……どうなるんだったかしら。
太田省吾 更地



そこで語られた出来事はほとんど、ありきたりな告白で、誰しもが考えつくかもしれない、通俗的な、誰しもが共感出来るかもしれないそんな些細な、些末な、ささやかな出来事だったわけですが、その何でもない出来事についてを語る仕草と、今はこうだけれど、もしかしたらこんな可能性があったのかもしれない、という曖昧な希望の集積、《ほとんどどなかったかもしれないようなことがいっぱい》になった稽古場の言葉は、どこまでも帰着することもなく積み重なることで、まるで演劇のようになりました、が、はたして演劇のようになった言葉は、そして、演劇として上演される《なんでもない日のなんでもないことがちゃんとあるように》なった言葉が、どうなるのかはまだ宙吊りのままになっています。


イメージだやらという言葉で、そこらを、ひっかかないでおくれ    
太田省吾 風枕










2016年3月25日金曜日

3月9日 ベチパー稽古

世の中って、ひろいのね。運動会やってる人達がいるんだわ、この世の中には。
太田省吾 小町風伝


さて、この日の稽古では、小説家によって書かれた言葉を声に出すことではなく、受講生8人(のうちお休みが3人いたので5人)が、これまでに演じたことのある幾つかの作品から、幾つかのシーンを抜粋してそれを5〜10分くらいに繋げて見せてもらう、ということで、稽古開始から1時間を、受講生たちの思い出し時間にあてる贅沢な稽古時間の使い方をしながら、その、出演者たちの《これまで》についての上演が開始されました。


ワーニャ叔父さん、女中たち、ダンス作品から京都の若手団体の戯曲から、とにかく、ざっくばらんに一緒くたにされてしまった言葉たちは、それぞれに、かつて、これまで、どこかで、上演された作品たちとその言葉たちであって、それらの全ては、全く関連性のない場所で、関連のない時間に、関係のない理由で上演されたはずだったのですが、偶然、ここに出演者8人(のうちお休みが3人いたので5人)がいたことで、かつて演じられた出来事が、全く違うコンテクスト上で、ほとんど強引に、一つのものとして集められることになりました。


あたしのお母さんの友達でない、会ったこともない東北地方の娘たちも土手を駈けたり
太田省吾 風枕


そこで上演されたのは京都で一年間に上演される演劇の中でも、本当に一部の作品たちからの抜粋であって、その稽古場に居ない、あったこともない演劇の団体の出演者の人たちだって、今まさに稽古を続けながら、何かを演じているはずなのですが、まったく、世の中は広くて、私達がこうやって稽古をしている間にも、運動会をしている人がいるし、土手を駆けたりしている人たちもいるはずで、もちろん、稽古場で上演されたワーニャ叔父さんも女中たちも、広い世の中の片隅で、こっそりと始められこっそりと終わっていたはずの出来事なのにもかかわらず、なぜか、その稽古場で改めて再現され直してしまうのです。


いいじゃないか。ここは清掃車がもっていってくれないゴミを捨てにくるところだもの。
太田省吾 老花夜想




3月2日 ベチパー稽古

引き出されたもの、その表現そのものだけが稽古での検討の対象だった。
太田省吾 水の駅 〈台本について〉


それで、昨年の公演の際には「人形の家」というテキストを使って稽古をしていた私達ですが、今回の稽古場では、山下澄人という現役の小説家によって書かれた小説を、8人の受講生によって読み続けています。


小説の地の文はともかく、使用されているシーンの殆どは短い関西弁の会話が続くような場所を抜粋して稽古をしているのですが、受講生の中でナチュラルに関西弁を使って普段の生活を続けている人は少なく、というか、そもそも、読むことを前提にして書かれたエクリチュールは、いつか俳優に口にされる事を前提にした戯曲とは採用されている言葉が違うわけです。


ではなぜ、そんな制約があるテキストが選ばれているかというと、山下澄人自身が、同じ小説家である保坂和志との対談の際に自分の小説を音読した、ということがあって、それが、とても、良かった、と村川さんは言うのですが、なにせ、受講生はその小説の作者ではないので、実際にその現場で引き出されるものは、必ずしも作者本人によって読まれた場合の臨場感とは別のものが生み出されてしまうことになります。


照明、次第に明るさを加え、舞台は〈長い道〉から〈ここ〉へと変貌していく。
太田省吾 水の駅


出演者によって語られる山下澄人の小説の中の言葉が、何かしらの臨場感、それは、上に引用した、〈長い道〉というただの言葉が、実際に当事者として、〈ここ〉に変容するためには、まだもう少し時間がかかりそうです。


世の中って、ひろいのね。運動会やってる人達がいるんだわ、この世の中には。
太田省吾 小町風伝



2016年1月20日水曜日

1月13日 ベチパー稽古2



体験という言葉の空しさ。体験とはためしえぬものだ。それは人為的にひき起すこともできぬ。ひとはただ、それに服するのみだ。それは体験というより、むしろ忍耐だ。ぼくらは我慢する――というよりむしろ耐え忍ぶのだ

アルベール・カミュ 太陽の讃歌 カミュの手帖-1


1月13日の稽古では出演者が自ら選んできた幾つかのテキストが使用されたのですが、それらのテキストはそれぞれに関連性などなく、エッセイや小説や戯曲や対談などの多様な文章を、ゆらゆらと歩く途中で他人に聞かせるために読むというルールで、聞く方も相づちのように手に持ったテキストを使って返事をする事を試みる、と、もちろん関連性のないテキスト同士は正しく会話にはならず、支離滅裂ではあるものの、それを会話として成立させようとする態度は、何を語り合っているかは判らなくとも、何かを伝えようとする意志や返事をしようとする気遣いなどを感じさせたりする中で、不意に意味のようなものが現れるような萌芽を感じさせる事もあります。


あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。
ロラン・バルト 文学の記号学


言葉は自分自身によって使われるのではなく、忍耐の体験の中で、あるいは、ファシズムの中で、たとえそれについて自分が知り得ないことが多くとも他人の熱狂さえあれば私たちは饒舌になる、というのはデビッドボウイの訃報についてRIPが書き連ねられるSNSのように、他人の熱狂がすなわち自分の熱狂であるような錯覚があるからこそ、ホラー映画に登場する危険が迫った主人公と同じく客席の私たちもハラハラすることも出来るように、使う言葉も、あらゆる身振りも、他者の欲望や情動があるからこそ自らに起きる出来事なのかもしれません。
しかし、実際に稽古で行われた事のほとんどは、その沈黙を恐れるどころか積極的に何かを語らないでやり過ごそうとするような意志によってか、極めて静かな、そして小さな声によって語られる幾つかのモノローグの連鎖でしかなく、もちろん、静かであること事態は悪いことではないのですが、いつまでも新しいことが見つからない停滞した沈黙が多くなり、さすがにその後ルールが変更され、テキストを持った一人の両脇に聞き手が並び、その聞き手たちに向けてテキストを説明する、という稽古に変わりました。


人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか?
浅田彰 構造と力


そこで、聞く人がその話がわからなかったら、わからない、と口にする、というルールを加えて行うと、説明をするために出演者たちはあらゆる身振りを加えながら、言葉だけでなく手の動きや表情など、あらゆる意味で饒舌に語ってしまうことになるのですが、その身振りこそは、つい先日まで行われていたような、出来事が起こる事を期待して待つという可能性に賭ける時間ではなく、どこまでも具体的に誰も知り得ない出来事を伝えるための行為によって語ることで余白を埋め尽くしてしまう過程をただ見続ける講師の村川さんですが、そこで起きている出来事が一体どんな意味があり演劇を作ることはいったいどんな作業であるか、あるいは、どのような作品を作るべきなのか、など、現在はまだそういったあらゆることを保留したまま、もちろんそれにどんな意味があるのかなどを出演者に説明したりなどはなく、ただ、あるルールや他人の言葉など、少しの負荷などの他人の欲望によってその稽古場で起きているあらゆることを眺めています。


引き出されたもの、その表現そのものだけが稽古での検討の対象だった。
太田省吾 水の駅 〈台本について〉









2016年1月7日木曜日

1月6日 ベチパー稽古1


林  僕たちだって、歌舞伎にしろ、シェイクスピアにしろ、その脚本を精読していっても、セリフの全部はなかなか聞き取れない。また、その必要もない。むしろ、またしても言えば、セリフは要所要所だけが分かればそれでよい。そして、要所のセリフは名文句や紋切り型ほどいい。レトリックで言うトピックスだ。……
(中略)
そして今度は極端な場合には、その舞台のコンヴェンションと紋切り型セリフ、いわゆるトピックスを逆流して、そんなもんだけで作った芝居さえ出てきた。その傑作が、ベケットの『ゴドーを待ちつつ』とか、イヨネスコの『禿の女歌手』とかだとも言えば言えないこともない。イヨネスコはこの作品に反戯曲(アンチ・ピエス)と銘打っているが、たしかにある意味ではそうだが、それは決して反演劇(アンチ・テアトル)を意味しません。この二つの「前衛劇」ほど、演劇の古くからの伝統の流れに棹さしていることを感じさせるものはない、というのが僕の感想なんです。

林達夫+久野収 思想のドラマトゥルギー



始まったばかりの今回の稽古場では、現在、何かが立ち上がる前の時間を過ごすためのインプロ、あるいは、何にも奉仕しない饒舌が貧しく退屈な時間がその退屈さを保持しながら、語る言葉はいつまでもただ宙に釣ったまま誰もそれを無視しないのだけれどだからといって誰もそれを掴み取らない、という状態を持続したままいくつかの約束を守るためだけに続けられる禁欲的なコミュニケーションの方法を実践していて、即興で語り始められる白抜きの言葉は何かを伝えるための道具としての機能を失くしかけながら、ただ決められた約束事を守る以外にやるべきことはないのだ、という俳優たちのぼんやりとした決意によって例えば物語や演技的なしぐさや様々な決め事が今回の稽古場では無用の贅沢品であるかのようにあらゆる行為を最小限に倹約しながら、けして自分たちの意志では引き起こすことの出来ないような滑稽な瞬間が起きるまで、どこにもたどり着かない宙吊りの饒舌がその稽古場でいつまでも浪費され、一方で身振りやしぐさは病的に節約されています。


私は「それ」が現れた最初の日のことをとてもよく覚えています。ちょうど私達が田舎にいて、独りで散歩にいったときのことでした。私が学校の前をぶらぶら通りすぎようとしたとき、突然ドイツの歌が聞こえて来ました。子どもたちの唱歌の時間でした。私は歌を聞こうとして立止りましたが、ちょうどその瞬間に、ある名伏し難い感覚、あの「非現実の混乱した感覚」に似た感じ――に襲われたのです。
 私は不思議な不安に満たされ、泣きじゃくりながら家に帰りました。私は庭へ行って「事物をもと通りにさせる」ために、つまり、「現実」に帰るために、ひとり遊びを始めました。

セシュエー 分裂症の少女の手記


この引用した分裂症患者の手記、ほどには混乱も切実さも無いですが、稽古場で行われている即興においても手記と同じように、それが何なのか――例えばそれを読む私たちが、《事物をもと通り》にするために、《「現実」に帰るために》《ひとり遊び》を行うことの意味や、そもそも《事物をもと通り》にする、ということを――理解することは容易くはないのだけれど、反戯曲がすなわち反演劇ではなく、そして、いくつかの常套句だけを聞き取れさえすれば、その他のすべてを分かる必要は無い、と林達夫は言うことと似て、どこにもたどり着かない、どこにもその手がかりの無い言葉の中で不意に現れてくる切実さや、分かるはずのない言葉から意味の気配を見つけることもあるのです。そしてその混乱した不可解さに、私たちは試され、負荷をかけられ、考えることを強制される事だってあります。

例えば何かを読み始めた時、私たちは、それが何であるかを考えずに、それを読むことが出来るのでしょうか。


あなたは偉いですよ。そまつにする奴には罰が当たる。虎が出たら一丈一尺。その通り間違いなし。いやもう有難うございます。なんともいえない。めんじょうはんしょう、ばしゃあぼうが、きどものじんたい、なかんなきなく、むかしゃあかんぼだい、そりゃあぼげ、びようかんしょく、飲まず食わず……

宮本忠雄 言語と妄想 危機意識の病理



それが何であるかを考えることなく、そこに書かれた言葉を読むことを私たちは出来るのでしょうか? 


あなたに今から一つのことだけをお願いします。
今から言うことを想像しないで下さい。
ピンク色の象のことだけは想像しないで下さい


という命令があった時に自動的にピンク色の象を想像してしまうような、《私そのもの》であるはずの思考が私の意識とは別に想像し、理解し、妄想し、解釈しようとしてしまう私たちの意識は、目の前に無意味さを突きつけられたに時に、対応することが可能であるように出来ていないようなのです。不可解で混乱したどこにも向かわない饒舌を読みながら、それが何であるかを名指さずにいることが私たちには出来るでしょうか。


一枚の写真はたんに写真家がひとつの事件に遭遇した結果なのではない。写真を撮ること自体がひとつの事件であり、しかもつねに起こっていることに干渉したり、侵したり、無視したりする絶対的な権利をもったものなのである。
スーザン・ソンタグ 写真論


そして、何かの意味を急に引き寄せてしまう一瞬の不意打ちを待つ時間を体験しながら、それは出来事そのものを創造するための贅沢品としての身振りや物語やセリフを拒否する出演者たち、時間そのものに耐えるための時間を過ごす出演者たちによって進行する稽古場の出来事は、能動的なものではなく、不意打ちを待ち、予想外の出来事を待ち、誰も責任の持ちようもない時間を耐え忍び、決して伝わることのない個人的で消極的な言葉を発し、起きるかもしれない可能性に期待する、その時に稽古場の出来事が誰しもがあらかじめ決められた牽制の体験は受動的なものに変わるのであれば、出来事そのものの体験者は、当事者でしょうか、それとも、それを見つめる第三者でしょうか。



体験という言葉の空しさ。体験とはためしえぬものだ。それは人為的にひき起すこともできぬ。ひとはただ、それに服するのみだ。それは体験というより、むしろ忍耐だ。ぼくらは我慢する――というよりむしろ耐え忍ぶのだ

アルベール・カミュ 太陽の讃歌 カミュの手帖-1





2015年12月 劇研アクターズラボ第二期 稽古開始



劇研アクターズラボ+村川拓也クラスは、実は10月からかれこれ稽古を何度も行ってきて、12月は4回も稽古をしたのですが、ブログを書くのは今回が初めてになってしまっていて、一応、受講生は全部で8人、ということで2016年9月にアトリエ劇研で公演を行うのですが、稽古場でいったいどんな稽古が行われているか、ということについては、また改めて、1月の稽古から毎週、更新していく予定です!