2016年3月25日金曜日

3月2日 ベチパー稽古

引き出されたもの、その表現そのものだけが稽古での検討の対象だった。
太田省吾 水の駅 〈台本について〉


それで、昨年の公演の際には「人形の家」というテキストを使って稽古をしていた私達ですが、今回の稽古場では、山下澄人という現役の小説家によって書かれた小説を、8人の受講生によって読み続けています。


小説の地の文はともかく、使用されているシーンの殆どは短い関西弁の会話が続くような場所を抜粋して稽古をしているのですが、受講生の中でナチュラルに関西弁を使って普段の生活を続けている人は少なく、というか、そもそも、読むことを前提にして書かれたエクリチュールは、いつか俳優に口にされる事を前提にした戯曲とは採用されている言葉が違うわけです。


ではなぜ、そんな制約があるテキストが選ばれているかというと、山下澄人自身が、同じ小説家である保坂和志との対談の際に自分の小説を音読した、ということがあって、それが、とても、良かった、と村川さんは言うのですが、なにせ、受講生はその小説の作者ではないので、実際にその現場で引き出されるものは、必ずしも作者本人によって読まれた場合の臨場感とは別のものが生み出されてしまうことになります。


照明、次第に明るさを加え、舞台は〈長い道〉から〈ここ〉へと変貌していく。
太田省吾 水の駅


出演者によって語られる山下澄人の小説の中の言葉が、何かしらの臨場感、それは、上に引用した、〈長い道〉というただの言葉が、実際に当事者として、〈ここ〉に変容するためには、まだもう少し時間がかかりそうです。


世の中って、ひろいのね。運動会やってる人達がいるんだわ、この世の中には。
太田省吾 小町風伝



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