2015年4月30日木曜日

4/29 「息抜き」とは言ったものの、コントを作ることはなかなかハードで


「息抜き」とは言ったものの、コントを作ることはなかなかハードで、村川さんからの指示は、銀行、コンビニ、家、に強盗が来る、という設定でコントを作る事と、とにかく笑かしてください、と、ハードルの高いハードな注文で、とりあえず二つのチームに分かれて受講生達は短い時間の中で、その、笑かすためのコント作りの相談を始めました。

村川さんからは、普段どうしても演出をされつづけて受け身になっていくから、今日は自分たちでどうにかする、ということを実践しましょう、ということでコント作りだったわけですが、人を笑わせようとして頑張ってしまうと「人を笑わせようとして頑張る人」になってしまい、「人を笑わせようとして頑張る人」というのは、どことなく一生懸命さが辛いというか、


面白いことします、見てください!


的な始まり方で始まってしまうそれは、多くの場合、温度差に冷めてしまうものです。


とはいえどうしたってバカバカしいそのありきたりでありふれた強盗というテーマのコントにも見応えがあって、もちろんコントに演出をつけている村川さんというのも新鮮ではあったのですが、そういえば村川さんは、コントの中で出てきた「ださっ!」という台詞に引っかかっていて、引っかかっていたというのは、稽古場という場所は普段の生活に比べて緩い場所(というのはつまり自分に対しても他人に対しても検閲を抑えるということでしょうか?)であるべきだから、そういう言葉がどんどん出て来ればいい、といったような事なのですが、山口昌男のように文化人類学を研究しながら笑いや演劇を同じ地平で語った研究者もいたり、別役実のように(、と言っても非常に不条理な)コントを書いた劇作家もいましたし、何で読んだか忘れましたが浅田彰は松本人志の「一人ごっつ」に対してまるでベケットのようだなんて言ったりもしたわけですから、笑いは演劇から遠く離れた場所にあるわけではないし、笑いと演劇を無理に分けて考える必要もないかもしれないし、




だからこそ、それを決して「息抜き」のようには出来ずに悩み込んでしまう受講生は、自分に対する検閲が強いのかもしませんが、自分自身を不自由にしてしまっているということは、どういった結果になるかはわからないものの、自由になる可能性もあって、それは常識に縛られて人形になっていたノラが、非常識な行いであろうと自立しようと家を出る事に似ているではないか!  と、どうしても人形の家と関係を持たせようと躍起になっている、このブログの筆者は、コントの中の強盗たちが、お金をください、と多様な言い方で叫んでいたのを、今思い出したりしながら、面白いコントの台詞どころかブログのタイトルさえ思いつかずにいるのでした。


2015年4月25日土曜日

4/23 4/24  お金を頂戴/お金をくださらない


たとえば日本の民主主義において選挙で決定されるのは、 《そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する》 と日本国憲法前文にて書かれている通り、国民と呼ばれる私たちの「代表者」を決めるためのものであって、つまり決定されたその代表者は「私たち」でもあるのです。



選択されたことによって排除されたものもあって、たとえば私たちは「ベチパー」という団体名に決定しましたが、もしかしたら「ちよこれいと」とか「未来派」とか「しかくい魚」とかそういった名前が「私たち」であった可能性としての「名前」、は、たった一つの代表者が選ばれるために排除されてしまい、私たち、としての 「劇研アクターズラボ+村川拓也」 という全体は 「ベチパー」 という 「名前」 によって、野村や武内や渡辺や北野などの受講生それぞれの固有名詞の代わりに、あるいは「私たち」という境界線の曖昧な総体の代わりに、その総体が何者であるかを宣言してくれるのですが、それは例えば名前以外の別の形でも行われ、警察官の制服や自動車のエンブレムやお相撲さんのちょんまげ(本当は髷でしょうが、ちょんまげのほうがかわいらしいのでそちらを選択しています)などなど、自分が何者であるかを示す方法は多様に存在しています。



お相撲さんの断髪式において行われるのはその「何者であるか」を示すエンブレムをなくすことであり、端的に言えば部外者になることとしてその断髪式は行われ、自分が何者であるかを「代表」して語ってくれるものをなくす行為であるのですが、自分が属している場所を出るための手続きとしてその「仮装の衣装を脱ぐ」ように彼らは自分がまとう社会的な衣装を脱ぐものの、自らの意志で学生という枠の外に出ることのできない不良少年たちは太めのズボンをはいてシャツをだして制服のボタンを開けて、その属している場所の秩序の「外」へ出ようとするからこそ、不良少年たちは教育をされ、型にはまった場所にとどまるように制限をかけられます。



その服装の乱れに対する教育というのは「あなたはこういった人間であるが故に、つまりこうしなければならない」と声をかけられることであり、ある理由、たとえば学生はこうあるべきだ、という道徳や、女はこんな風に生きるべきだ、という常識によって縛り付け、制限をかけるという「教育」は根拠が理性的だからこそ厄介ではありますが、そういった「教育」という「女性であることの制限」を受けたノラという女性を描いた「人形の家」の稽古が進んでいます。



選挙の話でも団体名の話でもちょんまげの話でも服装の話でもなく、もっと別に語るべきことは本当はたくさんあって、たとえば稽古終わりにご飯に行って楽しかったです的なほんわかした話もあったはずなのですが、それは簡単に排除され、選挙や団体名やちょんまげや服装などの話が採用されたのは、現在稽古場にて進んでいる「人形の家」が、ノラという女性を中心にその言葉が散らかりながら、やがて人形の家に近づいたり離れたりしながら、たとえばどうしてその後ろ姿は常に見えているのか、などなど、それは何か、ということを名づけがたい出来事の連続で進んでいく稽古場の感想が、なんとなくおさまりの良い記録などでは物足りないし、やはり、何の話だったんだよ、おい、というものであるべきでしょうということで、今日は選挙と名前とちょんまげと教育の話なのでした。






4/22 団体名が決まりかけました。 / 4/24 そして決まりました。


そう遠くない前の記事にて、団体名が決まっていませんと書いたのち、その日のけいこ場に集まったみなさんへアナウンスをして一週間がたった22日の稽古の前に、一人二個ずつ考えてくるように、ということになっていた団体名をそれぞれが発表しました。


結果的に22日の時点ではまだ決定しなかったその「団体名」なわけですが、一応、アクターズラボのしきたりとして決めているだけなので、実は「劇研アクターズラボ村川拓也 第一回公演」とかでもチラシを作ることができるし、実際のところコンセプト自体は確かに一番わかりやすいと言えば、まあ、わかりやすいわけで、みんなからもらった団体名案の中にも「劇研アクターズラボ+村川拓也」というのも確かにありましたが、村川さんからは、投票中に何度か、攻めたほうがいいよ、という言葉が聞かれ、確かになんとなくおさまりの良い団体名よりは、一回で覚えられるような攻めたものがいいのではありますが、村川さん、いち押しの(これは票が集まらなかったのですが)、「ちよこれいと」という案にはいささか驚いたというよりは、攻めすぎなのではないだろうか、とも思ったりしました。


結果的にその日は投票だけをして、票が多く集まったいくつかのものを候補として、また後日、ということになりましたが、実はすでに決まっていて、それというのも今週は稽古が3回(!)しかも連続で(!)行われましたので、この三日間で決まりました。



そして4/24になりまして、一人だけ期日前投票があったのち、そこに集まった受講生たちによる投票が行われたわけなのですが、ホワイトボードに書かれたいくつかの候補の横に正の字を書き足しながら、ついに決まった団体名なのですが、割とあっさりここで紹介させていただくと、受講生のアキヅキさん(漢字が変換できない)が立候補させた 「ベチパー」 という団体名に決まりました。

というわけで、改めまして、初めまして、私たちはベチパーです。


後で聞きましたが、ベチバーという植物があるそうです。
お暇があれば調べてみてくださいませ。
というわけで、団体名も決まりましたが、特に何も変わることなく、稽古はこれからも進んでいきます。


2015年4月16日木曜日

4/15 Colorless green ideas sleep furiously



色のない緑の概念が猛然と眠る、という一文があって、例えば感受性が豊かであればそこから詩の楽しみを感じても構わないと思うし、批評家的な気分でもって隠喩的な意味を探すことさえ出来るかもしれないその、言語学者ノーム・チョムスキーのよって作成された、Colorless green ideas sleep furiously、色のない緑の概念が猛然と眠る、というそれは「文法は正しく」「内容的には無意味な文章」の例文として発明されたものでありました。


とはいえ、獰猛に眠る、というその言葉に、もしかしたら何かの意味を感じることは出来るのかもしれないし、その、何も意味しない言葉、というシニフィエのない純粋なシニフィアンに立ち会うとき、意味を求めてしまう態度は、例えば夢診断なんかで一喜一憂することに似ているのではないでしょうか。


そんな話をするのも、村川さんはよく、自分で指示をした演出に、わからない、とか、なんでそうなっているのだ、と言って、事後的にそれが何であるかを発見するのですが、それは演出家というよりは、むしろ一人の観客としてそこに何があるのかを食い入るように見ているのかもしれません。


サミュエルベケットは「クワッド」という小作品にて、顔を隠した俳優4人が決まったパターンの歩行を機械的に繰り返すだけの作品を上演しました。

https://www.youtube.com/watch?v=LPJBIvv13Bc


そこにいる人が、そこにいる必然性さえないままただ同じ動きを繰り返すことを、例えばアウシュビッツにおいて、人として死ぬことができなかった人間たち(いる、のに、いない)という批評ができるのかもしれないし、実際にその(存在/非存在)はたとえば私じゃないという作品などにも登場し、そして多く語られてきたはずです。


いないいないばあ、という遊びは、いる、いない、の繰り返しで、それはFoet-Daという遊びとして、糸巻きを投げて、引き戻して、また投げて、という子供の遊びと同じく、一度失くしたものを再び手に入れ、帰還と消滅の繰り返しだ、なんていう難しい話があるのですが、不意に稽古場で現れてくる「人形の家」と、再びいなくなってしまう「人形の家」の繰り返しは、一度、バラバラに分解されたいくつかのテキストの言葉たちが、再び、遠回りの結果に人形の家に回帰していく過程として稽古場にはあって、失くしたり見つけたりを繰り返しながら、稽古が着々と進んでいます。


2015年4月15日水曜日

4/2 4/9 そういえば、団体名が決まっていません


今回、それなりに期間が空いてしまったのは、本当に単純に書き手の怠慢そのもので、今日からまた改めて稽古場でどんなことがあったのかということをアレコレと書いていこう、と決意したものの、実際、今までの稽古と変わらず最近もずっと、人形の家の序盤のシーンを繰り返しているので、もちろん、毎回の稽古の中で少しずつ変化をするものの、いつまでもイプセンのことばかりを書くのもあれなので、たまには別の話題を書くべきだと思いつつ、半分は講師の村川さんへ、どこかで時間をとりましょう、とお伝えする意味を込めて(というのもやっぱり稽古を進めていきたいという気持ちはあるので)こんなタイトルになりました。


団体名が決まっておりません。


一応、アクターズラボ+村川拓也とはなっていますし、どういう集団なのか、ということも非常にわかりやすいので、このままでも良いとも思うのですが、3年計画で進む予定の劇研アクターズラボですから、せっかくなので3年間つづけて使うことのできる団体名を、そろそろ、決めて、そうして、劇研のHPにて公開したいとは思っているのでした。


団体名をつけたとして、これは村川拓也+アクターズラボである事の注釈は必要にはなるのですが、たとえば3/11 representのブログで全くイプセンには関係のないソンタグの写真論なんかを引用したりしながら稽古について考えたりすることは、イプセンの言葉に凹凸(おうとつ)をつけるように、村川さんの稽古は、テキストに書かれた言葉に身体がより多くの注釈をつけることや、あるいはテキストに書かれた注釈を排除することで、人形の家は凸凹(でこぼこ)になっていくのです。



そんなこんなで稽古が進んでいる村川ラボですが、一応、もう一つ決めたいことがあって、途中で一回だけ寄り道をしたものの、基本的には人形の家をずっと続けているこのクラスにて、上演されるのは「人形の家」で決定なのか、そうではないのか、ということで、ただ、このクラスで行われている「人形の家」は、いわばごく当たり前にテキストに従って進んでいくようなものではなく、登場人物の言葉や仕草の意味を脱臼させるようにして、少しずつそのあり方を外していくような方法で上演されるかもしれない「人形の家」が、はたして「人形の家」と呼ぶべきなのか、ということと、それでもやはりそれは人形の家から抽出された様々な要素で出来上がっている以上、「人形の家」である、ということは間違いないのではあるのですが、実はまだどこにもはっきりと、人形の家を上演する、ということが明記はされていなくて、村川拓也とアクターズラボ受講生による人形の家、が上演される、と、もうそろそろしっかりと公表してもいいのではないだろうか、とも思っているのですが、果たして受講生とともに村川さんが陥没と隆起を作りつつある「人形の家」が、9月に公演される、ということで決定で良いのかということも、これは「人形の家」ですか? ということも含めて、改めてちゃんと決めないとなあ、と思うのでした。