2015年4月16日木曜日

4/15 Colorless green ideas sleep furiously



色のない緑の概念が猛然と眠る、という一文があって、例えば感受性が豊かであればそこから詩の楽しみを感じても構わないと思うし、批評家的な気分でもって隠喩的な意味を探すことさえ出来るかもしれないその、言語学者ノーム・チョムスキーのよって作成された、Colorless green ideas sleep furiously、色のない緑の概念が猛然と眠る、というそれは「文法は正しく」「内容的には無意味な文章」の例文として発明されたものでありました。


とはいえ、獰猛に眠る、というその言葉に、もしかしたら何かの意味を感じることは出来るのかもしれないし、その、何も意味しない言葉、というシニフィエのない純粋なシニフィアンに立ち会うとき、意味を求めてしまう態度は、例えば夢診断なんかで一喜一憂することに似ているのではないでしょうか。


そんな話をするのも、村川さんはよく、自分で指示をした演出に、わからない、とか、なんでそうなっているのだ、と言って、事後的にそれが何であるかを発見するのですが、それは演出家というよりは、むしろ一人の観客としてそこに何があるのかを食い入るように見ているのかもしれません。


サミュエルベケットは「クワッド」という小作品にて、顔を隠した俳優4人が決まったパターンの歩行を機械的に繰り返すだけの作品を上演しました。

https://www.youtube.com/watch?v=LPJBIvv13Bc


そこにいる人が、そこにいる必然性さえないままただ同じ動きを繰り返すことを、例えばアウシュビッツにおいて、人として死ぬことができなかった人間たち(いる、のに、いない)という批評ができるのかもしれないし、実際にその(存在/非存在)はたとえば私じゃないという作品などにも登場し、そして多く語られてきたはずです。


いないいないばあ、という遊びは、いる、いない、の繰り返しで、それはFoet-Daという遊びとして、糸巻きを投げて、引き戻して、また投げて、という子供の遊びと同じく、一度失くしたものを再び手に入れ、帰還と消滅の繰り返しだ、なんていう難しい話があるのですが、不意に稽古場で現れてくる「人形の家」と、再びいなくなってしまう「人形の家」の繰り返しは、一度、バラバラに分解されたいくつかのテキストの言葉たちが、再び、遠回りの結果に人形の家に回帰していく過程として稽古場にはあって、失くしたり見つけたりを繰り返しながら、稽古が着々と進んでいます。


0 件のコメント:

コメントを投稿