2014年12月15日月曜日

12/11 話し合い



今回は稽古が始まってものすごく久しぶりに人形の家と全く関係のない話題です!
そう、人形の家について、受講生同様、こんなに考えたことが、かつてあったでしょうか?

今回、アクターズラボとして今後どんなふうに稽古を進めていくか、という話し合いが行われて、結局その話し合いが3時間にも及んでしまったわけですが、最終的には、今まで通り、ということになりました。


紆余曲折をすべて書ききる事は難しいのですが、一つ思い出せることは、みんな困ってた、ということでした。

たとえば今回の作品は村川さんの新作公演でもなく、受講生はただ俳優として集まっているわけではない、が、村川さんが舵を取らなければ作品はできない、けれど、受講生の主体性は失ってはいけないのに公演のクレジットは作演出村川拓也と書かれてしまう、としてもこれは村川拓也+アクターズラボとしてあるべきだがアクターズラボというのはつまり受講生全体のことではあるのにその全体というのは具体的に誰の意思なのかわからないまま結局村川さんを中心になってしまいがちな所でしかしそれでは対等ではないものの果たして対等であろうと提案する村川さんが中心になっているのだからやっぱり軸は村川さんのはずなのにそれが不健康なら受講生同士で話し合う機会を作るって言ってもそもそも受講生の中で音頭をとるのは誰なのかをまずは誰かが決めないといけないような・・・・・・・

と、あれやこれや、ああでもないこうでもない、えっちらおっちら、と話し合った挙句に、今迄通り、そういうことを無理に考えることがどちらかといえば変なことだ、と考える時間だったという結論になりました。

ぶつかった壁を乗り越えたわけでも、一段上に行った、ということでもなく、話し合った結果、水平に超える、という結論を出すための3時間はそんな風に終わったのでした。ただ、毎回の稽古がそうですが、受講生とともに村川さんは、同じように悩んでいる、という水平の場所にいつもいます。

久しぶりにイプセン以外の話題ではあったのですが、来週からは、ちゃんと人形の家を読んでみる、という稽古が始まります。

12/10 女はみんな生きている


というのはフランス映画のタイトルで、さすがに毎度、タイトルが人形の家では退屈なので、こうやってその稽古場ではまったく話題にもならなかった映画のタイトルを拝借してきたのですが、この映画はコリーヌ・セローという監督が撮ったコメディではあるものの、現代的なフェミニズム、あるいはジェンダーについての問題を端々に、あるいはあからさまに撮影しています。
人形の家もジェンダーとして読むことはできますし、そういう意味ではこのタイトルも近からず遠からずで、演劇でも女性性を扱った作品では、ヴァギナモノローグという作品など、ジェンダーやセックスやフェミニズムに絞っても、世界各国でいろいろな作品が様々なアプローチで書かれています。

イプセンの人形の家についてひたすらに考え続けてきたこのクラスですが、一応今回でまずは一区切りがついたようで、それというのも、それぞれが「脱出」というテーマで考えた新しい上演方法というか演出をミックスして、1チーム(6人)で人形の家のラストシーン(登場人物2人)を様々なアプローチで演じる、という稽古が行われ、時間に追われながらもなんとか発表が済んで、それぞれのチームの意図が語られ、村川さんからの演出も加わり、という風に進んでいくのですが、今月はいよいよ、みんなで人形の家を読んでみよう、という話にもなっています。

稽古開始段階では、受講生は誰も人形の家を読んでいない、ということが発覚して、その後、皆がそれを読んだのかはわかりませんが、とにかく、もう少し人形の家について考える、という時間がこのクラスでは続いていくようです。

アクターズラボは名前の通り俳優についての技術を学ぶところではありますが、学問に王道なし、というか、俳優になる、というアプローチには様々な方法があるのでしょうし、ドラマなどでさえ最近は見なくなったありがちでありきたりな発声練習をしているイメージから、河原乞食と呼ばれるような汚いイメージまで、それに、テレビのCMで活躍する人気俳優から、小劇場を活躍の場とする俳優まで、道なりも目標もさまざまに用意されています。

このクラスでの道なりというのは、まだ始まったばかりなのでこれからのことはわかりませんが、まずは読んで考えるということから始まって、その後は、演技がうまくなる、というよりも、演劇のとらえどころのない可能性を実践してみる、というところを経由しているようでした。
演劇論や演技論など、アマゾンで調べれば世界各国でいろいろな演出家や俳優が様々なアプローチで書いているので、どうしようもないね、これは、という量の本が見つかりますが、それだけ多くの方法が用意されている中で、演技が上手になる、というのではなく、演劇が上手になる、という一歩として、その出口はまず9月の公演ではあるのですが、ちょっとずつこのクラスの稽古は進んでいます。



2014年12月8日月曜日

12/3 人形の家々




とりいそぎ、や、承知いたしました、など、若いころには使わないのに大人になると自然とみんな使っている言葉を糸井重里はかつて 「大人語」 として収集していました。

逆に、いとうせいこうは 「難解な絵本」 で子供が、もう物心もついたし、来年は幼稚園に入るし、もう、子供も引退だ、というように、子供に子供を引退させるようなよくわからない絵本(?)を書いたこともありました。

演劇的な 「異化」 というような言葉があって、それこそ大人語のような意味で 「演劇語」 として流通してしまっているような言葉を使わなくても、大人としては普通になっていた言葉にフォーカスしてみたり、子供らしさを消すことで、逆に子供らしさを考えてみる、など、ちょっと変な距離感でそのものを見つめてみることで、おかしみのある発見をするのです。


それというのも、今回の稽古中に村川さんが暇だとおっしゃいました。


講師、が、暇だ、と言うにはそれなりの理由があって、そういえば太田省吾さんも、大学の講義中に黒板に向かったまま悩み始めてしまって、そのまましばらく頭を抱えて黙ってしまうことがあったそうですが、今回までの稽古で、受講生の皆さんが演出したいくつかの 「人形の家」 を纏めて、一つの人形の家として再構成する、という指示が出され、受講生が、ああでもない、こうでもない、と相談している間、村川さんは講師らしくない、暇だ、という言葉を仰っていて、先生、と呼ばれるべき立場の人が、その辺の高校生的に、暇だ、と言うのがどことなくおかしかったのですが、そういえばナンシー関も 「大人は大人のふりをしている」 というような事をどこかに書いていたと思うし、青木淳吾の小説の帯には 「街は言葉でできている」 と書かれていたように、人の立場も言葉でできていて、ノーラは自分を 「着せ替え人形」 と言葉で比喩しながら、自分の置かれている立場を発見するのでした。

たったひとつの「人形の家」が、受講生がそれぞれに考える「人形の家」に再構築されて、さらにそれぞれに新しい解釈をされたいくつかの「人形の家」が、たった一つの「人形の家」として構築される過程は、例えば、よつばと!というマンガの帯にも 「世界は見つけられるのを待っている」 と書かれていましたが、なにで見つけるのかといえば、自分は人形だ、とノーラが自分自身を語ったように、それぞれに「人形の家」は、こういうものだ、と受講生が考えて形にした発見をパッチワークする作業は、今までの稽古で、すでに取り留めもない「人形の家」がさらに取り留めもないものになってしまうのかもしれませんが、例えば難解な絵本で「そんなの子供じゃないよね」という距離をとることによって子供のことを考えるように、いろいろな言葉でパッチワークされた「人形の家」が再構築されることによって新しい「人形の家」を発見するということもあるのかもしれません。


「人形の家」が「人形の家」として「人形の家」らしく「人形の家」を上演するだけでなく「人形の家」らしくない「人形の家」を考えることで「人形の家」が「人形の家」としてどんどん「人形の家」のゲシュタルトが崩壊していく過程で、あるいはそれぞれの思惑を持った「人形の家」を考えた言葉が一緒に上演されると、いったいどんな作品になるのか、それは来週のけいこで発表される予定ですが、散らかった言葉をむりやり一緒に集めることは、受講生にとってもなかなかお手数で大変なようでした。