2014年12月8日月曜日

12/3 人形の家々




とりいそぎ、や、承知いたしました、など、若いころには使わないのに大人になると自然とみんな使っている言葉を糸井重里はかつて 「大人語」 として収集していました。

逆に、いとうせいこうは 「難解な絵本」 で子供が、もう物心もついたし、来年は幼稚園に入るし、もう、子供も引退だ、というように、子供に子供を引退させるようなよくわからない絵本(?)を書いたこともありました。

演劇的な 「異化」 というような言葉があって、それこそ大人語のような意味で 「演劇語」 として流通してしまっているような言葉を使わなくても、大人としては普通になっていた言葉にフォーカスしてみたり、子供らしさを消すことで、逆に子供らしさを考えてみる、など、ちょっと変な距離感でそのものを見つめてみることで、おかしみのある発見をするのです。


それというのも、今回の稽古中に村川さんが暇だとおっしゃいました。


講師、が、暇だ、と言うにはそれなりの理由があって、そういえば太田省吾さんも、大学の講義中に黒板に向かったまま悩み始めてしまって、そのまましばらく頭を抱えて黙ってしまうことがあったそうですが、今回までの稽古で、受講生の皆さんが演出したいくつかの 「人形の家」 を纏めて、一つの人形の家として再構成する、という指示が出され、受講生が、ああでもない、こうでもない、と相談している間、村川さんは講師らしくない、暇だ、という言葉を仰っていて、先生、と呼ばれるべき立場の人が、その辺の高校生的に、暇だ、と言うのがどことなくおかしかったのですが、そういえばナンシー関も 「大人は大人のふりをしている」 というような事をどこかに書いていたと思うし、青木淳吾の小説の帯には 「街は言葉でできている」 と書かれていたように、人の立場も言葉でできていて、ノーラは自分を 「着せ替え人形」 と言葉で比喩しながら、自分の置かれている立場を発見するのでした。

たったひとつの「人形の家」が、受講生がそれぞれに考える「人形の家」に再構築されて、さらにそれぞれに新しい解釈をされたいくつかの「人形の家」が、たった一つの「人形の家」として構築される過程は、例えば、よつばと!というマンガの帯にも 「世界は見つけられるのを待っている」 と書かれていましたが、なにで見つけるのかといえば、自分は人形だ、とノーラが自分自身を語ったように、それぞれに「人形の家」は、こういうものだ、と受講生が考えて形にした発見をパッチワークする作業は、今までの稽古で、すでに取り留めもない「人形の家」がさらに取り留めもないものになってしまうのかもしれませんが、例えば難解な絵本で「そんなの子供じゃないよね」という距離をとることによって子供のことを考えるように、いろいろな言葉でパッチワークされた「人形の家」が再構築されることによって新しい「人形の家」を発見するということもあるのかもしれません。


「人形の家」が「人形の家」として「人形の家」らしく「人形の家」を上演するだけでなく「人形の家」らしくない「人形の家」を考えることで「人形の家」が「人形の家」としてどんどん「人形の家」のゲシュタルトが崩壊していく過程で、あるいはそれぞれの思惑を持った「人形の家」を考えた言葉が一緒に上演されると、いったいどんな作品になるのか、それは来週のけいこで発表される予定ですが、散らかった言葉をむりやり一緒に集めることは、受講生にとってもなかなかお手数で大変なようでした。



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