2016年3月25日金曜日

3月9日 ベチパー稽古

世の中って、ひろいのね。運動会やってる人達がいるんだわ、この世の中には。
太田省吾 小町風伝


さて、この日の稽古では、小説家によって書かれた言葉を声に出すことではなく、受講生8人(のうちお休みが3人いたので5人)が、これまでに演じたことのある幾つかの作品から、幾つかのシーンを抜粋してそれを5〜10分くらいに繋げて見せてもらう、ということで、稽古開始から1時間を、受講生たちの思い出し時間にあてる贅沢な稽古時間の使い方をしながら、その、出演者たちの《これまで》についての上演が開始されました。


ワーニャ叔父さん、女中たち、ダンス作品から京都の若手団体の戯曲から、とにかく、ざっくばらんに一緒くたにされてしまった言葉たちは、それぞれに、かつて、これまで、どこかで、上演された作品たちとその言葉たちであって、それらの全ては、全く関連性のない場所で、関連のない時間に、関係のない理由で上演されたはずだったのですが、偶然、ここに出演者8人(のうちお休みが3人いたので5人)がいたことで、かつて演じられた出来事が、全く違うコンテクスト上で、ほとんど強引に、一つのものとして集められることになりました。


あたしのお母さんの友達でない、会ったこともない東北地方の娘たちも土手を駈けたり
太田省吾 風枕


そこで上演されたのは京都で一年間に上演される演劇の中でも、本当に一部の作品たちからの抜粋であって、その稽古場に居ない、あったこともない演劇の団体の出演者の人たちだって、今まさに稽古を続けながら、何かを演じているはずなのですが、まったく、世の中は広くて、私達がこうやって稽古をしている間にも、運動会をしている人がいるし、土手を駆けたりしている人たちもいるはずで、もちろん、稽古場で上演されたワーニャ叔父さんも女中たちも、広い世の中の片隅で、こっそりと始められこっそりと終わっていたはずの出来事なのにもかかわらず、なぜか、その稽古場で改めて再現され直してしまうのです。


いいじゃないか。ここは清掃車がもっていってくれないゴミを捨てにくるところだもの。
太田省吾 老花夜想




3月2日 ベチパー稽古

引き出されたもの、その表現そのものだけが稽古での検討の対象だった。
太田省吾 水の駅 〈台本について〉


それで、昨年の公演の際には「人形の家」というテキストを使って稽古をしていた私達ですが、今回の稽古場では、山下澄人という現役の小説家によって書かれた小説を、8人の受講生によって読み続けています。


小説の地の文はともかく、使用されているシーンの殆どは短い関西弁の会話が続くような場所を抜粋して稽古をしているのですが、受講生の中でナチュラルに関西弁を使って普段の生活を続けている人は少なく、というか、そもそも、読むことを前提にして書かれたエクリチュールは、いつか俳優に口にされる事を前提にした戯曲とは採用されている言葉が違うわけです。


ではなぜ、そんな制約があるテキストが選ばれているかというと、山下澄人自身が、同じ小説家である保坂和志との対談の際に自分の小説を音読した、ということがあって、それが、とても、良かった、と村川さんは言うのですが、なにせ、受講生はその小説の作者ではないので、実際にその現場で引き出されるものは、必ずしも作者本人によって読まれた場合の臨場感とは別のものが生み出されてしまうことになります。


照明、次第に明るさを加え、舞台は〈長い道〉から〈ここ〉へと変貌していく。
太田省吾 水の駅


出演者によって語られる山下澄人の小説の中の言葉が、何かしらの臨場感、それは、上に引用した、〈長い道〉というただの言葉が、実際に当事者として、〈ここ〉に変容するためには、まだもう少し時間がかかりそうです。


世の中って、ひろいのね。運動会やってる人達がいるんだわ、この世の中には。
太田省吾 小町風伝