2015年4月25日土曜日

4/23 4/24  お金を頂戴/お金をくださらない


たとえば日本の民主主義において選挙で決定されるのは、 《そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する》 と日本国憲法前文にて書かれている通り、国民と呼ばれる私たちの「代表者」を決めるためのものであって、つまり決定されたその代表者は「私たち」でもあるのです。



選択されたことによって排除されたものもあって、たとえば私たちは「ベチパー」という団体名に決定しましたが、もしかしたら「ちよこれいと」とか「未来派」とか「しかくい魚」とかそういった名前が「私たち」であった可能性としての「名前」、は、たった一つの代表者が選ばれるために排除されてしまい、私たち、としての 「劇研アクターズラボ+村川拓也」 という全体は 「ベチパー」 という 「名前」 によって、野村や武内や渡辺や北野などの受講生それぞれの固有名詞の代わりに、あるいは「私たち」という境界線の曖昧な総体の代わりに、その総体が何者であるかを宣言してくれるのですが、それは例えば名前以外の別の形でも行われ、警察官の制服や自動車のエンブレムやお相撲さんのちょんまげ(本当は髷でしょうが、ちょんまげのほうがかわいらしいのでそちらを選択しています)などなど、自分が何者であるかを示す方法は多様に存在しています。



お相撲さんの断髪式において行われるのはその「何者であるか」を示すエンブレムをなくすことであり、端的に言えば部外者になることとしてその断髪式は行われ、自分が何者であるかを「代表」して語ってくれるものをなくす行為であるのですが、自分が属している場所を出るための手続きとしてその「仮装の衣装を脱ぐ」ように彼らは自分がまとう社会的な衣装を脱ぐものの、自らの意志で学生という枠の外に出ることのできない不良少年たちは太めのズボンをはいてシャツをだして制服のボタンを開けて、その属している場所の秩序の「外」へ出ようとするからこそ、不良少年たちは教育をされ、型にはまった場所にとどまるように制限をかけられます。



その服装の乱れに対する教育というのは「あなたはこういった人間であるが故に、つまりこうしなければならない」と声をかけられることであり、ある理由、たとえば学生はこうあるべきだ、という道徳や、女はこんな風に生きるべきだ、という常識によって縛り付け、制限をかけるという「教育」は根拠が理性的だからこそ厄介ではありますが、そういった「教育」という「女性であることの制限」を受けたノラという女性を描いた「人形の家」の稽古が進んでいます。



選挙の話でも団体名の話でもちょんまげの話でも服装の話でもなく、もっと別に語るべきことは本当はたくさんあって、たとえば稽古終わりにご飯に行って楽しかったです的なほんわかした話もあったはずなのですが、それは簡単に排除され、選挙や団体名やちょんまげや服装などの話が採用されたのは、現在稽古場にて進んでいる「人形の家」が、ノラという女性を中心にその言葉が散らかりながら、やがて人形の家に近づいたり離れたりしながら、たとえばどうしてその後ろ姿は常に見えているのか、などなど、それは何か、ということを名づけがたい出来事の連続で進んでいく稽古場の感想が、なんとなくおさまりの良い記録などでは物足りないし、やはり、何の話だったんだよ、おい、というものであるべきでしょうということで、今日は選挙と名前とちょんまげと教育の話なのでした。






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