2016年1月20日水曜日

1月13日 ベチパー稽古2



体験という言葉の空しさ。体験とはためしえぬものだ。それは人為的にひき起すこともできぬ。ひとはただ、それに服するのみだ。それは体験というより、むしろ忍耐だ。ぼくらは我慢する――というよりむしろ耐え忍ぶのだ

アルベール・カミュ 太陽の讃歌 カミュの手帖-1


1月13日の稽古では出演者が自ら選んできた幾つかのテキストが使用されたのですが、それらのテキストはそれぞれに関連性などなく、エッセイや小説や戯曲や対談などの多様な文章を、ゆらゆらと歩く途中で他人に聞かせるために読むというルールで、聞く方も相づちのように手に持ったテキストを使って返事をする事を試みる、と、もちろん関連性のないテキスト同士は正しく会話にはならず、支離滅裂ではあるものの、それを会話として成立させようとする態度は、何を語り合っているかは判らなくとも、何かを伝えようとする意志や返事をしようとする気遣いなどを感じさせたりする中で、不意に意味のようなものが現れるような萌芽を感じさせる事もあります。


あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。
ロラン・バルト 文学の記号学


言葉は自分自身によって使われるのではなく、忍耐の体験の中で、あるいは、ファシズムの中で、たとえそれについて自分が知り得ないことが多くとも他人の熱狂さえあれば私たちは饒舌になる、というのはデビッドボウイの訃報についてRIPが書き連ねられるSNSのように、他人の熱狂がすなわち自分の熱狂であるような錯覚があるからこそ、ホラー映画に登場する危険が迫った主人公と同じく客席の私たちもハラハラすることも出来るように、使う言葉も、あらゆる身振りも、他者の欲望や情動があるからこそ自らに起きる出来事なのかもしれません。
しかし、実際に稽古で行われた事のほとんどは、その沈黙を恐れるどころか積極的に何かを語らないでやり過ごそうとするような意志によってか、極めて静かな、そして小さな声によって語られる幾つかのモノローグの連鎖でしかなく、もちろん、静かであること事態は悪いことではないのですが、いつまでも新しいことが見つからない停滞した沈黙が多くなり、さすがにその後ルールが変更され、テキストを持った一人の両脇に聞き手が並び、その聞き手たちに向けてテキストを説明する、という稽古に変わりました。


人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか?
浅田彰 構造と力


そこで、聞く人がその話がわからなかったら、わからない、と口にする、というルールを加えて行うと、説明をするために出演者たちはあらゆる身振りを加えながら、言葉だけでなく手の動きや表情など、あらゆる意味で饒舌に語ってしまうことになるのですが、その身振りこそは、つい先日まで行われていたような、出来事が起こる事を期待して待つという可能性に賭ける時間ではなく、どこまでも具体的に誰も知り得ない出来事を伝えるための行為によって語ることで余白を埋め尽くしてしまう過程をただ見続ける講師の村川さんですが、そこで起きている出来事が一体どんな意味があり演劇を作ることはいったいどんな作業であるか、あるいは、どのような作品を作るべきなのか、など、現在はまだそういったあらゆることを保留したまま、もちろんそれにどんな意味があるのかなどを出演者に説明したりなどはなく、ただ、あるルールや他人の言葉など、少しの負荷などの他人の欲望によってその稽古場で起きているあらゆることを眺めています。


引き出されたもの、その表現そのものだけが稽古での検討の対象だった。
太田省吾 水の駅 〈台本について〉









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