2016年1月7日木曜日

1月6日 ベチパー稽古1


林  僕たちだって、歌舞伎にしろ、シェイクスピアにしろ、その脚本を精読していっても、セリフの全部はなかなか聞き取れない。また、その必要もない。むしろ、またしても言えば、セリフは要所要所だけが分かればそれでよい。そして、要所のセリフは名文句や紋切り型ほどいい。レトリックで言うトピックスだ。……
(中略)
そして今度は極端な場合には、その舞台のコンヴェンションと紋切り型セリフ、いわゆるトピックスを逆流して、そんなもんだけで作った芝居さえ出てきた。その傑作が、ベケットの『ゴドーを待ちつつ』とか、イヨネスコの『禿の女歌手』とかだとも言えば言えないこともない。イヨネスコはこの作品に反戯曲(アンチ・ピエス)と銘打っているが、たしかにある意味ではそうだが、それは決して反演劇(アンチ・テアトル)を意味しません。この二つの「前衛劇」ほど、演劇の古くからの伝統の流れに棹さしていることを感じさせるものはない、というのが僕の感想なんです。

林達夫+久野収 思想のドラマトゥルギー



始まったばかりの今回の稽古場では、現在、何かが立ち上がる前の時間を過ごすためのインプロ、あるいは、何にも奉仕しない饒舌が貧しく退屈な時間がその退屈さを保持しながら、語る言葉はいつまでもただ宙に釣ったまま誰もそれを無視しないのだけれどだからといって誰もそれを掴み取らない、という状態を持続したままいくつかの約束を守るためだけに続けられる禁欲的なコミュニケーションの方法を実践していて、即興で語り始められる白抜きの言葉は何かを伝えるための道具としての機能を失くしかけながら、ただ決められた約束事を守る以外にやるべきことはないのだ、という俳優たちのぼんやりとした決意によって例えば物語や演技的なしぐさや様々な決め事が今回の稽古場では無用の贅沢品であるかのようにあらゆる行為を最小限に倹約しながら、けして自分たちの意志では引き起こすことの出来ないような滑稽な瞬間が起きるまで、どこにもたどり着かない宙吊りの饒舌がその稽古場でいつまでも浪費され、一方で身振りやしぐさは病的に節約されています。


私は「それ」が現れた最初の日のことをとてもよく覚えています。ちょうど私達が田舎にいて、独りで散歩にいったときのことでした。私が学校の前をぶらぶら通りすぎようとしたとき、突然ドイツの歌が聞こえて来ました。子どもたちの唱歌の時間でした。私は歌を聞こうとして立止りましたが、ちょうどその瞬間に、ある名伏し難い感覚、あの「非現実の混乱した感覚」に似た感じ――に襲われたのです。
 私は不思議な不安に満たされ、泣きじゃくりながら家に帰りました。私は庭へ行って「事物をもと通りにさせる」ために、つまり、「現実」に帰るために、ひとり遊びを始めました。

セシュエー 分裂症の少女の手記


この引用した分裂症患者の手記、ほどには混乱も切実さも無いですが、稽古場で行われている即興においても手記と同じように、それが何なのか――例えばそれを読む私たちが、《事物をもと通り》にするために、《「現実」に帰るために》《ひとり遊び》を行うことの意味や、そもそも《事物をもと通り》にする、ということを――理解することは容易くはないのだけれど、反戯曲がすなわち反演劇ではなく、そして、いくつかの常套句だけを聞き取れさえすれば、その他のすべてを分かる必要は無い、と林達夫は言うことと似て、どこにもたどり着かない、どこにもその手がかりの無い言葉の中で不意に現れてくる切実さや、分かるはずのない言葉から意味の気配を見つけることもあるのです。そしてその混乱した不可解さに、私たちは試され、負荷をかけられ、考えることを強制される事だってあります。

例えば何かを読み始めた時、私たちは、それが何であるかを考えずに、それを読むことが出来るのでしょうか。


あなたは偉いですよ。そまつにする奴には罰が当たる。虎が出たら一丈一尺。その通り間違いなし。いやもう有難うございます。なんともいえない。めんじょうはんしょう、ばしゃあぼうが、きどものじんたい、なかんなきなく、むかしゃあかんぼだい、そりゃあぼげ、びようかんしょく、飲まず食わず……

宮本忠雄 言語と妄想 危機意識の病理



それが何であるかを考えることなく、そこに書かれた言葉を読むことを私たちは出来るのでしょうか? 


あなたに今から一つのことだけをお願いします。
今から言うことを想像しないで下さい。
ピンク色の象のことだけは想像しないで下さい


という命令があった時に自動的にピンク色の象を想像してしまうような、《私そのもの》であるはずの思考が私の意識とは別に想像し、理解し、妄想し、解釈しようとしてしまう私たちの意識は、目の前に無意味さを突きつけられたに時に、対応することが可能であるように出来ていないようなのです。不可解で混乱したどこにも向かわない饒舌を読みながら、それが何であるかを名指さずにいることが私たちには出来るでしょうか。


一枚の写真はたんに写真家がひとつの事件に遭遇した結果なのではない。写真を撮ること自体がひとつの事件であり、しかもつねに起こっていることに干渉したり、侵したり、無視したりする絶対的な権利をもったものなのである。
スーザン・ソンタグ 写真論


そして、何かの意味を急に引き寄せてしまう一瞬の不意打ちを待つ時間を体験しながら、それは出来事そのものを創造するための贅沢品としての身振りや物語やセリフを拒否する出演者たち、時間そのものに耐えるための時間を過ごす出演者たちによって進行する稽古場の出来事は、能動的なものではなく、不意打ちを待ち、予想外の出来事を待ち、誰も責任の持ちようもない時間を耐え忍び、決して伝わることのない個人的で消極的な言葉を発し、起きるかもしれない可能性に期待する、その時に稽古場の出来事が誰しもがあらかじめ決められた牽制の体験は受動的なものに変わるのであれば、出来事そのものの体験者は、当事者でしょうか、それとも、それを見つめる第三者でしょうか。



体験という言葉の空しさ。体験とはためしえぬものだ。それは人為的にひき起すこともできぬ。ひとはただ、それに服するのみだ。それは体験というより、むしろ忍耐だ。ぼくらは我慢する――というよりむしろ耐え忍ぶのだ

アルベール・カミュ 太陽の讃歌 カミュの手帖-1





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