太田省吾 老花夜想
そうしてその日の稽古では、ある出演者が過去に行った作品の方法を踏襲しながら、全員がそれを真似てシーンをつなげていく、というような事が行われました。
それがどんなことだったのか、ここで言うことは出来ないのですが、ぼんやりと説明をすると、ある1日についての、他の可能性について出演者たちが語り合う、という事で、もしかしたらこうだったかもしれない今日という1日や過去の選択について、出演者たちはその場の思いつきで、ありふれた出来事を互いに告白し続けます。
本当にってことは、ほとんどなかったかもしれないようなことなのよ。あたし、ほとんどなかったかもしれないようなことがいっぱい欲しい。ほとんどなかったようなことがいっぱいあれば……なんでもない日のなんでもないことがいっぱいあったことになって、……そうよ、なんでもない日のなんでもないことがちゃんとあるようになれば……どうなるんだったかしら。
太田省吾 更地
そこで語られた出来事はほとんど、ありきたりな告白で、誰しもが考えつくかもしれない、通俗的な、誰しもが共感出来るかもしれないそんな些細な、些末な、ささやかな出来事だったわけですが、その何でもない出来事についてを語る仕草と、今はこうだけれど、もしかしたらこんな可能性があったのかもしれない、という曖昧な希望の集積、《ほとんどどなかったかもしれないようなことがいっぱい》になった稽古場の言葉は、どこまでも帰着することもなく積み重なることで、まるで演劇のようになりました、が、はたして演劇のようになった言葉は、そして、演劇として上演される《なんでもない日のなんでもないことがちゃんとあるように》なった言葉が、どうなるのかはまだ宙吊りのままになっています。
イメージだやらという言葉で、そこらを、ひっかかないでおくれ
太田省吾 風枕
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