2015年6月4日木曜日

5/27 同じことの繰り返しとして、


このブログが気がつけば1180くらいの閲覧回数がカウントされておりまして、なんとなく驚いてしまったのですけど、それではせっかくなので読み直してみたりしたら、なんとまあ、同じような話ばかりしている、というか、稽古自体も確かに同じことばかりしているのですが、それにしても、制度、とか、外に出る、とか、そんな話ばっかりしている、ということに気がつくのでした。



《たったひとつの「人形の家」が、受講生がそれぞれに考える「人形の家」に再構築されて、さらにそれぞれに新しい解釈をされたいくつかの「人形の家」が、たった一つの「人形の家」として構築される過程は、例えば、よつばと!というマンガの帯にも 「世界は見つけられるのを待っている」 と書かれていましたが、なにで見つけるのかといえば、自分は人形だ、とノーラが自分自身を語ったように、それぞれに「人形の家」は、こういうものだ、と受講生が考えて形にした発見をパッチワークする作業は、今までの稽古で、すでに取り留めもない「人形の家」がさらに取り留めもないものになってしまうのかもしれませんが、例えば難解な絵本で「そんなの子供じゃないよね」という距離をとることによって子供のことを考えるように、いろいろな言葉でパッチワークされた「人形の家」が再構築されることによって新しい「人形の家」を発見するということもあるのかもしれません》


《決してイプセンが想定していなかったであろう今回の幾つもの奇抜な「人形の家」は、ありきたりな人形の家ではない、しかし、人形の家である、という不思議な二重性を保ったまま、ほんの少しずつ、人形の家への理解を深めている最中です》


《人形の家を勉強してしまったばっかりに、上手くいかない、と村川さんは仰って、それは、人形の家というものが、「ある制度的な場所から自由になる事の話」だといった読まれ方をするのであれば、人形の家を上演するという事は、同時に「制度からの自由でなければならない」のかもしれないという考えがどうやら頭の中で漂っているらしく、その自由とは、きっと最初から村川さんが言っていた「演劇のような喋り方って言うのは何となく出来てしまうんです」というような、どうしても勝手に我々がいつの間にか習得している「それらしさ」にあやかるどころかまるでそれそのものが正解であるかのように思い込まされてしまい、気がつけばそこから抜けられなくなっている「制度」からの自由でもあり、》


同じ時間について、同じ言葉を繰り返し語る、というか、同じ主題を何度も語り直してばかりではあるのですが、そんなに同じことばかり書いてしまうのも、演劇の稽古というものが、同じ稽古を繰り返し続けざるをえない、からこそ、その堂々巡りはまさしく演劇の稽古をしているという感じがするのでした。



0 件のコメント:

コメントを投稿