2015年6月4日木曜日

6/3 同じことの繰り返しとして、



同じことの繰り返しとして、例えば能なんかは橋を作るにあたって人柱になった男についての伝承を語るために行われた、などという起源の解釈があるわけですし、そうやって継続することというそれ自体が一種の価値として行われることには、他には聖地巡礼などを行い過去の神話的な伝承を再確認し自分たちの出生を知るための必要な儀式になったりするのですが、概ね普通の生活のなかでは同じことの繰り返しは退屈なものとして嫌われることが多く、そういったことが一つの秩序となった時にその世界が構成している関節をはずす者を道化と呼んだ山口昌男という文化人類学者は、道化は笑い者であると同時に恐ろしい者である理由を、秩序に反した出来事であるからだと結論をつけるのです。


イプセンによって書かれ、ごく当たり前に解釈できるための研究書など探せ場いくらでも手に入る「人形の家」というテキストは、説明がついてしまう秩序の側にすでに収められていて、人形の家はこういうものだ、という確固たるあり方が示されてしまっているからこそ、秩序に違反する不良少年が指導されるように、人形の家っていうのは、ああいうものじゃあないんだよ、と制度のなかのあり方を強制される可能性を秘めたテキストです。



同じことの繰り返しとして、何度も再演され語り直されてきた人形の家の繰り返しの円の外に出てしまうことのおかしさは、端的に、ふざけてる、というような気がしなくもなくて、きっとイプセンの人形の家の上演、と言われてもごく普通のあり方として想定されていないこのクラスの「人形の家」は、端的にちょっと「おかしい」ものになっています。


とはいえ笑いは、すでにある秩序からはみ出した突飛で驚きに満ちた出来事として、つまり想定外の出来事として現れた時に、笑いと畏怖は起こり得る可能性があって、ちょっとおかしい出来事の「おかしい」は二つの意味を抱えてながら、同じことの繰り返しとして、少しずつずれながら進んでいます。

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