2015年8月13日木曜日

8/10 猫写/描写


「猫の尻尾ばかりを細部まで丹念に描いて全体の構図やバランスがおかしくなってしまうような絵の書き方」という猫の写生の比喩について、それを思い出せなかった、ということから、次回、ということにしてそれまでに調べてくるつもりだったのに、まさしく、それを調べるのすら思い出せなかった書き手は、セリフを覚えきれていない受講生に「頑張ってセリフを覚えてね!」とか言ったりする資格は無い! ということかもしれませんが、セリフを覚えなければ演劇にはなら無いので、受講生の皆さん、頑張りましょう!


とはいえ、セリフを覚えることもなかなか大変ではありますが、そもそも、「人形の家」のあらすじなどはいくらでも検索で出てくるわけで、わざわざ覚えなくても、誰もが知っている、と言っても過言では無いような「人形の家」を上演することは、簡単に要約してしまえば、これから何が起きるのだろうか、という「謎」をほのめかすような、何が起きるかわからない、というミステリー的な発想のようなことが出来ないという事かもしれません。


しかし、今回の稽古の中で不意に思い出した(というか、思い出しそびれている)、《猫の尻尾ばかりを細部まで丹念に描いて》いくことで狂った細部の全体像が出来上がる、というのは、具体的に書きすぎる事によって、むしろそこにあるものの意味がわからなくなる、過ぎたるは及ばざる、という事でしょうけど、本当に小さな一つ一つの出来事に丹念に見続けこだわり続け村川さんの演出による、誰しもが知っているはずの、外に出て行く女性を描いた「人形の家」の稽古について、前回「どんな風にこの「人形の家」が完成されるのか」わからない、と、と書きましたが、よく考えれば、終わり方は他でもない台本に書いてあって、それこそ、誰でも知っているラストシーンのはずなのに、なぜ稽古場では、その終わり方がわからなくなってしまうのでしょうか。


謎をほのめかし、最後に種明かしをする、という「未知→既知」という方向性ではなく、知っているはずなのにそれについて理解ができない状態への、「未知←既知」という、つまり、「知っていることが、わからなくなる」という作業が続く人形の家は、例えばサミュエルベケットの小説のいつまでも続く描写のように、あるいは電化製品についてくる膨大な量の説明書のように、それ自体について、わかっているはずなのに、わからなくなっていく、という、狂ったパースの不思議な魅力を携えながら、人形の家を見つめたままの後ろ歩きを続けています。

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